大規模地震と大規模停電/「専門禍」という概念をめぐって:「コロナ対応」と「ウクライナでの戦争」について

3月17日(木)晴れ

昨夜は東北地方で大きな地震があり、関東でもだいぶ揺れて広範囲にわたって停電が発生したという。200万世帯が停電という記事を見たが、ここまで大規模な停電は数十年ぶりではないだろうか。午前7時前の現在ではほぼ完全に復旧していると思われるが、原因の一つは福島県の広野火力発電所が停止したことのようだ。まだ復旧の見通しが立っていないということで他の手段で停電は解消したのだと思うが、東京の電源は福島県に頼っていることが改めて認識される。電源やエネルギー計画に関してはそんなに詳しくないから勉強しないといけないなと思うのだが、いろいろな事態を想定して不都合が起こらないようにしていかないといけないと思う。

当地では震度3となっていたが、実際には揺れは感じなかった。寝ようと思ってTwitterを見たらタイムラインが大騒ぎになっていたのでびっくりしてテレビをつけてそんなに大きかったのかと認識した程度だった。しかし今朝は朝が早いのでそこで寝損なったのは大きく、今でも寝不足の感がある。寝入りばなの地震は、特に揺れの大きかった地域で多くの人に寝不足をもたらしただろう。亡くなられた方も二人いたとのことでご冥福をお祈り申し上げたい。また揺れた地域の方、寝不足の方々もどうぞご安全にお過ごしください。

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昨日ネットを見ていて思ったのだけど、その分野における「専門知」と生活者の実感としての「常識感覚」のようなものにかなりの距離があるとき、専門知の説得やそれを政府が採用して啓蒙が行われるときに、常識感覚から発言すると強く非難されるような現象が起きていて、そのことを「専門禍」と称する表現が見られ、そのことについて考えたりしていた。

素朴に考えれば、専門家は我々一般市民=素人よりもその分野において知識も経験も豊富であり、その対応についてはなるべくその理論や機序を理解した上で尊重するのが望ましいのではないかと思うが、特に「コロナ」に対する感染症の専門家について問題視する意見が多く見られ、主にそのことを指しているように思われた。

私も今回のコロナ禍に対しての日本全体の対応の仕方として、これがベストだったとは言えないだろうなと思うが、「より少なく悪い」程度の対応はできたのではないかと思う。これらの対応に対し、国によっては暴動が起こって政府の対策に反対するような動きもあったし、日本でもさまざまな立場から専門家と国が主導した対策に対し異論が述べられている。

未曾有の事態に対する対応としては当然の反応ではあると思うが、非難の応酬や専門家に対する人格攻撃にまで及んでしまうとこれもまた問題だと思うし、また異論を述べる人たちが強く排除されすぎるのもまた問題であったと思う。

結局のところ、こういうものに対する対応は全ての人が満足することはできないし、かなり高度な専門知が要求される分野のことに感覚や常識、あるいは主権者としての意識からの強力な反対意見などが出されることで強い混乱がもたらされる可能性もある。

私は基本的に老親を抱えているので今回の対応はまあ仕方ないかなというような立場なのだが、そういう状況でなければ結構異論はあっただろうなとも思う。

私個人の感覚で言えば、とりあえずこういう時は主導すべき人たちによって提案されたことやその動き(リーダーシップ)にとりあえず従って状況を見守っていくフォロワーシップを重視する立場から、この事態を乗り切った後で対応を検証し、より正しい方向へ舵を切り直すしかないという感じがする。

ただそれが不適切な対応になる場合ももちろんあるわけで、そういう対応をとること自体が一つの賭けであることは言うまでもない。東日本大震災の津波で逃げ遅れた人の中には不適切なリーダーシップに従ったために巻き込まれてしまった人たちも多くいるわけで、こういうときに全体のリーダーシップに従わない人がある程度いることは、避けられないことだと思うしあまり強く非難もできないのではないかと思う。

ただ、そうした「専門知による主導」を「専門禍」と称することには違和感はある。昨日ネットで見たのは主にコロナ対策によって経済や人流が停滞したことにより多くの人が職を失い、また事業をやめざるを得なかったことについての「専門禍」の主張なのだけど、これはむしろそういう方向での対応の専門家である行政学や経済学、経営学の方面などからの研究や支援が不足していたことの方が問題なのではないかと思う。不況下で多くの企業が事業を終えることを自然淘汰で仕方ないとするような経済学では、コロナ禍で倒産する企業が出ても自然淘汰としか見ないような視点になってしまい、逆に言えばそれもまた「専門禍」ではないかという気がする。

話を広げれば、財政規律絶対主義の財務省や新自由主義的な自己責任の観念で雇用や賃金を抑えてきた経済政策そのものが「専門禍」であるとも言える。

今回のウクライナの事態について、「戦後平和主義リベラル」が「ウクライナの人々が降伏せずに戦っていること」自体に「違和感を表明する」という事態になっていて、「それは世界の常識から大きくかけ離れている」と軍事専門家からの指摘を受けて批判されることについても「専門禍」という表現が使われるようになっていて、この表現の危うさが強く感じられる。本来こうした主張は侵略したロシアの側に直ちに停戦して国境まで撤兵せよというべきであるのに、侵略された側にいうこと自体が間違っているというのは専門でもなんでもないそれこそ常識的なことなのだが、戦後平和主義の優等生はそういう意味で常識が違ってきてしまっていることが懸念される。

基本的に国民国家というものは市民自らの防衛参加によって成立するものであることは近代史を学んでいればわかることなのだが、それまでを「専門禍」としてしまうのは「自ら防衛する」ことを放棄してもアメリカに「守ってもらえる」という主権国家的でない発想を前提にしているわけで、それはむしろ現状認識の偏りだと考えるべきだと思う。

「専門禍」という概念は、それぞれの主張にとって使い勝手のいい概念ではあるようには思うが、それだけに危険性・中毒性があるように思われる。こうした表現を使っている人は主に人文系の知識人のようだけど、そういう意味での「専門禍」に陥らないように気をつけていただきたいし我々も見ていきたいものだと思う。


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