映画「ルックバック」を見た。とても素晴らしかったが、特に背景美術が主役なんじゃないかとさえ感じられた作品だった。

7月2日(火)晴れ

昨日は4回出かけた。5時過ぎにローソンにジャンプとヤンマガ、スピリッツを買いに行ったのが1回目。スピリッツがなかったので一度荷物を部屋に置きに戻ってからまた出てまだちゃんと見てなかった都知事選のポスター掲示板を見に行った。雨が降っていて風があって傘が飛ばされそうになりながら見ていたのだが、NHK党の掲示板ジャックは行われてなくて、都知事選の方は11人ほどの候補者の写真が並んでいた。横に都議補選の掲示板もあり、これは穏当に四人が並んでいた。そのままセブンに行き、スピリッツを買って帰った。

2回目は10時過ぎに期日前投票に出かけた。ポスターを見て投票する人を決めたのでそのまま区役所に歩いていったが、小学校の前の掲示板ではAIメイヤー氏が加わっていたがNHK党のものはなかった。区役所前にあった掲示板にはジョーカー議員が加わっていたが、やはりNHK党のものはなかった。結局掲示板ジャックを見れずじまいではあった。期日前投票を済ませ、スーパーで昼食を買って帰宅。スマホを忘れてちゃんと写真が撮れなかった。

自宅で昼食を済ませ、一休みした後で1時過ぎに日本橋に出かけた。東西線で日本橋に出て、歩くより早いと思って銀座線で一駅、三越前まで行く。コレド室町2の3階にあるTOHOシネマズ日本橋へ。チケットはネットで取ってあったので交換することなくそのままメールで送られてきたQRコードを赤外線?読み取り装置に曝すだけ。それを見て係の人が入場者特典の「ルックバック」の作者、藤本タツキさんの原作ネームを渡してくれた。

入場してさらに階を上がり、(ということはあれは4階か)6番のシアターに入場。スクリーンに向かって右後方の通路側の席に座ったのだが、隣にも人がいたので少し窮屈な感じはあった。


劇場アニメ映画「ルックバック」、噂に違わぬ傑作だったと思う。原作の漫画はジャンププラスでも読んだし単行本も持っている。原作がジャンププラスで公開されたのは2021年7月19日だった。少年ジャンプ本誌で「チェンソーマン」が連載されたのが2018年12月から2020年12月、復活して第2部の連載がジャンププラスで始まったのが2022年7月なので、ちょうどその休載期間に書かれたということになる。インターミッションに描かれたもう一作の「さよなら絵梨」が2022年4月11日に公開されている。

原作の絵の丁寧なアニメ化という印象で見始めたけれども、見ていくうちにこのアニメ作品はそれだけではない、ということがだんだんわかり始めた。アニメ作成の時は原画担当が描いた線を動画担当が誰でも描けるような線に変えて描くとのことだが、この作品では原画の線をそのまま生かして動画にしているそうで、そのほとんどを監督が描いたという話もあり、とにかくアニメ制作側の尋常でない熱量が伝わってくる。

私の第一印象を描くと、物語のストーリーや次に何が起こるかは全て知っていたので、それでも時々ハンカチが必要になったが、自分が良かったと思ったことを正直に言えば、ただただ背景美術の凄さに圧倒されたという感じだった。もちろんキャラクターもストーリーもいいのだが、背景美術を書き続けた京本に対する挽歌だという気がして、なんだかずっと背景に惹かれてしまった。特に印象に残ったのは、美術大学で防寒に襲われた京本を空想の中の藤野が救い、足を折って救急車で送られる背景の溶けかけの雪の道。あのリアルさというか、ああいう自然が日本のリアルなんだということを、ひしひしと意識してしまった。

「藤野」と「京本」というキャラクター名は、作者の「藤」「本」タツキさんが2人に分かれたのだと思った。京の字は、やはり「京アニ」へのオマージュと挽歌だとしか思えない部分がある。この作品がジャンププラスで公開された2021年7月19日は、京アニ放火事件が起こった2019年7月18日からちょうど2年後なのである。1日外してあるのさえ、何か意味があるような気がしてしまう。そして殺人者の動機は、「パクられた」であるから、あの事件を想像するなという方が難しいだろう。

京本の葬儀から戻り、再び描き始めた藤野のスタジオからの朝焼けに浮かび上がる街の風景。そこに浮かび上がるエンドロールに並ぶのはほとんどが日本人の名前で、それだけ下請けに出したりせずに自分たちでこの作品を作ろうという強い意気込みがあったように思った。

この漫画の主役はあえて言えば「漫画」であり、「絵」であり、「背景美術」なのだと思う。エンドロールでも制作に携わった人たちの名前が並び、キャストを演じた声優(それもプロでなく俳優)の名前が出てくるのはエンドロールの後半である。もちろん素晴らしい演技で、着実な演技の藤野役の河合優実さんの安定感がこの作品の音声的な骨格を作っていると思ったが、特に京本役の吉田美月喜さんが良かった。オーディションの際に「引きこもりの要素を感じる」という評があったそうだが、まさにそれはわかる。そして最初はきつい方言だったのが、最後には標準語に近くなっていく(藤野役は最初から標準語)というのが京本に起こった変化なんだ、というのが感じられて、正直これはすごいと思った。

ただそれはそれとして、最初の四コマ漫画の時から、京本の絵はずっと動かない風景である。その巧みさに藤野が嫉妬して最初は猛烈に練習するが、「オタクになっちゃうよ」と言われて心が揺らいでいるときに京本の絵を見て心が折れ、一時書くのをやめてしまうわけである。絵をめぐる物語であり、絵を描く人間をめぐる物語であることは一目瞭然なのだけど、だからこそこの作品においての絵に対する熱さは尋常でなく、それがこの作品を素晴らしいものにしていることは間違いない。

京本を殺した犯人のいう「ネットに上げた絵をパクられた」というのは、もちろん京アニ事件の青葉被告の発言を思い出すわけだけれども、その時私はどこにいるのだろうか、と思った。殺された京本の側なのか、凶行に及んだ側なのか、それとも無縁の衆生なのか。マンガの読者であり、絵の鑑賞者であり、絵の上手い人が羨ましいと思いながらできないでいる自分というものの中に、犯人の側を理解できる要素が一ミリもないと言えば嘘になる。しかしそれは絵を描く人全員が意識無意識に関わらず持っている感情だとも思うし、絵を描く、表現をするという行為とその場がある種の戦場である、ということでもある。

多分、原作で藤本さんは「殺されたのは自分だったかも知れない」という立場で描いているように思う。京本の本は藤本の本だからである。彼女は、ないし彼らは死んだのに自分は生きている。それはどういうことなのか。あの事件が創作者に与えた深刻な危機が、この映画にはありありと現れていたのではないかと思う。

パンフレットを読んでも表に出ているインタビューを見ても、この作品を取り上げたものに京アニ事件のことは一言も出てこない。しかしだからこその傷の深さというものをそこに見てしまうわけで、藤本さんは京アニ事件の一年あまり後にチェンソーマン第一部の連載を終え、2年後にこの作品を発表しているけれども、このモチーフ自体は連載中から持っていたというから、そこからつい推し測ってしまうものがある。

その事件が起こった日、藤野は電話で編集者と背景を描くアシスタントについてやりとりをしている。これはアニメオリジナルである。当然ながら、アニメのオリジナルの部分にアニメを作る側の意図や構想がより濃く現れるとは思う。

当日の話の前に一つ描いておくと、キービジュアルやPVでもよく出てくるジャンプ新人賞で賞を取って大金を手に入れた13歳の二人が10万円持って街に繰り出し、「豪遊」するが5千円しか使えなかった、という話の中で、藤野が京本の手を引いて走っていく場面が印象に残るわけだが、手を引っ張る藤野が振り返って京本を見ると、自撮り写真の腕のようにデフォルメされた腕の向こうに不安げながらも楽しそうな京本の笑顔が描かれている。しかし原作ではこの場面の京本は目をつぶって歯を食いしばって尻込みしながら人混みを藤野に引っ張られていく場面として描かれているわけで、そういう意味では描かれている内容が全然違うのである。

だからこれはアニメ作品が「こういう映画である」と宣言しているような場面であって、京本がいかに「世の中」を恐れているか、それなのに京本を引っ張り出した藤野をいかに信頼し心を開いているか、を原作以上に強調して、「そういう二人の関係」を描くところにも一つの大きな重点を置いているのだな、と思ったのだった。

編集者とのやりとりも、背景を描いているアシスタントがどの人も結局は藤野の要求に応えれられていないことが示唆されている。これはつまり、藤野が無意識なのかどうか、「京本の絵」を求めているという演出であると考えられる。京本が死んだ後の空想の中でも、助かった京本に対し藤野は「連載できたらアシスタントになってね!」と言っているのである。

藤野は京本の死にショックを受け、「シャークキック」の連載を中断してしまうが、その中には親友を失い、かけがえのないライバルを失ったという喪失感の他に、「京本を部屋から引っ張り出してしまった」という後悔があるわけである。その後悔は、モノを作る人、モノを教える立場の人には皆わかることだと思う。

私自身もとある進学校で高校生に世界史を教えていた時「先生の授業を受けて東洋史に進むことに決めました」と言われた時、面映い思いがするのと同時になんともいえない罪深さを感じた。自分がきっかけになって、人を幸せになるとは言い切れない世界に引っ張り込んでしまった可能性があるわけである。もちろんそれが全てが自分の責任だと考えてしまうのは教える側・表現する側の傲慢であって、いずれにしても道を選ばなければならない人にとってはきっかけの一つに過ぎないのだけど、それでも責任の一部は感じざるを得ないだろう。

藤野の空想の中で京本を救い、現実に帰った時に見た京本の4コマの中で藤野は、背中にグサリとツルハシが突き刺さっている。それは手酷い後悔と喪失感の傷そのものだろう。しかしあの四コマは一体誰が描いたのだろうか。

あの絵には京本というサインがあるが、あのシンプルな絵は藤野なんじゃないかという意見をネットで読んで、そうかもしれないとも思った。しかし、今読み直してみると、藤野が描いた四コマには迷い線があるのに対し、この絵はさらさらっと描かれていて、キャラクターの性格の掴み方も藤野ではないようにも思える。

それを読んだ藤野が京本の部屋に入っていく。部屋の中には「藤野キョウ」名義の作品、「シャークキック」が並んでいて、何より私がグ
ッときてしまったのはアンケートハガキが描かれていたことだった。周知のようにジャンプ作品はアンケート順位で連載継続や中止が決まるだけでなく、雑誌内でどこに置かれるかの地位が決まる。京本がずっと藤野のことを考えて一生懸命応援していたことがわかる。そして京本の部屋で自分の作品を読み、「このつづきは12巻で!」と描かれた文字を読んで、藤野は立ち上がるわけである。

京本に初めて会った卒業式の日に、京本の絵に心を折られて絵をやめていた藤野は、京本に激賞されて思わず言ってしまった賞にチャレンジするということを実行するために、それまで放り出していたマンガに取るものもとりあえず書き始める。京本の部屋での場面の後に藤野は、東京の自分のスタジオに戻って来て無心に一心不乱に絵を描き始める。

この二つの場面が二重写しにされているということにマンガを読んだ時には気づかなかったが、京本との出会いで絵を再び描き始めた藤野は、京本との別れで再び絵を描き始めたわけである。そしてその別れは、京本の真意を知る、京本との再会でもあったわけである。

このアニメの中で次に何が起こるのかはマンガを何回となく読んでいるから全部知っているのに、それがどういう「風景」の中で描かれるかが想像もしていない世界に放り込まれる感じがあり、この映画の主役は背景美術だと思ったのである。

私なら卒業式の日に京本に褒められて嬉しさ全開にして走る藤野の絵は大駒のアップの静止画にしたのではないかと思うが、映画ではそうなっていなかった。この場面は原作でも最も好きな場面だったのだが、なぜそうしなかったのかというのがラストまで見てああ、と思い当たったわけである。

京本の部屋で藤野が立ち上がり、喪服姿で月明かりの中田舎の畦道を歩いていくその道は、京本と初めて出会った時に喜び勇んで帰って来たあの道ではなかったか。

見終わった後、映画館から外に出るとコレド室町の軽薄なゴージャスの店が並んでいて、その中に今はいたくないと思った。この映画を見終わった後は、本当は夜明けのビル街か、雪のちらつく田んぼの畦道を歩きたい感じがする。上映関数が少なく、どうしても都心でこの映画を見ざるを得ないのはどこか残念で、田舎の小さな映画館でこそ上映してもらいたい映画だと思った。本当は日本橋をぶらぶらして帰るつもりだったが、全然そんな気にならなくてまっすぐ家に帰ってしまった。


この作品について書きたいことはたくさんあり、セリフでは特に二人が別れるきっかけになった「でも、もっと絵、上手くなりたいもん」というセリフや、「じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?」というセリフの後の京本の笑顔や、そういうエモーショナルな巧みさについて書きたいことはある。

また、この作品はシンプルに見えるけれども実は藤本タツキさんの作品らしくさまざまな仕掛けに溢れていて、例えば作中で事件が起こった2016年1月10日というのは、日本ではこれという事件は起こってないが、実はデヴィッド・ボウイが亡くなった日なのである。そしてデヴィッド・ボウイには「Look back in anger」という曲があり、そのPVの中ではボウイは画家を演じているのである。その中で画家であるボウイは自分の作品を愛でているうちに自分の顔が絵の具になっている、自分が絵の世界に閉じ込められていくような演出がなされている。

また、これもネットで読んだ指摘だが、原作一コマめの学校での場面で、先生の背後にある黒板にはDon'tという文字が書かれている。見過ごしてしまうが、これは小学校4年生の教室なのである。また、ラストの藤野が一心不乱に絵を描いている後ろ姿の室内には、左下に「in anger」と書かれた本が置かれている。「Don't look back in anger」というOasisの曲の題名である。

このPVを見ると、この曲が実にビートルズオマージュの曲であることがわかるが、70年当時のビートルズの思想や主張を強く批判していることもわかる。特に

Please don't put your life in the hands
Of a Rock 'n' Roll band
Who'll throw it all away

「ロックンロールバンドに命を預けないで。彼らは全てを投げ出してしまう。」という歌詞は、90年台のOasisから見た70年のビートルズに対する強い批判が感じられる。

これらのことの中から感じられるのは「向こうの世界に行ってしまった京本」や、京本との思い出というものに命を預けるな、ということのように思われる。この辺りの解釈はもちろんもっと違うことも可能だと思うのでとりあえずの今の自分の解釈ということになるが、全体に幻想的で難解なこの場面の解釈を、少しでも深められれば良いと思う。

その辺りについても機会を作ってまた考えて書いてみたい。

(この辺りの内容についてはこちらのnoteを参考にさせていただいています。)



4回めに外出したのはそのまま実家に戻る時で、7時前に家を出てバスで地元の駅に出て、丸の内の丸善でハヤシライスを食べ(ハヤシスパゲティは終わっていた)、新宿9時の特急に乗って帰った。いつもより遅くなったので少し疲れたが、東京での時間は余裕が持てた。

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