『ルックバック』とOasisとDavid Bowie
はじめに
本稿は、藤本タツキ『ルックバック』(集英社ジャンプコミックス)を3つのパートに分けて、それらをOasisとDavid Bowieの楽曲を手掛かりに読み解こうと試みるものです。
藤本タツキ作品と映画との関わりについては多くの方々が言及しておられる感がありますが、音楽との関わりは(特にDavid Bowieについては)あまり考察を見ない気がしたので、新作が発表されたこの機会に書いておこうと思いました。
なお『ルックバック』発表直後の雰囲気や色んな方々の考察については以下を参照して下さい。
以上、よろしくお願いします。
その1.2016年1月10日まで(p.001-095)/ Oasis
まず1つ目のパートは物語の冒頭から、京本の死によって藤野が再び心を折られるまでです。
ここで「再び」と書いたということは初回があるわけで、藤野は京本の絵によって一度は心を折られています。
それはつまり、同級生男子の心ない「京本の絵と並ぶと、藤野の絵ってフツーだなぁ!」という発言や、藤野を心配する同級生女子や姉の言動では無く、京本こそが藤野を挫折させたということです。
こうして一度は漫画から離れた藤野でしたが、他ならぬその京本から才能を激賞されて復活を遂げ、漫画家への道を突き進むことになりました。
ではOasis "Don't Look Back In Anger"を読み解いて行きましょう。
まず始めに、この曲の歌詞が難しいのは"You"と呼ばれる対象が確定しづらい点にあると思うので、ここでは以下のような解釈をしたいと思います。
つまり優しいトーンで歌われているAメロの"You"は聴き手(および親しい人)への呼び掛けで、一転して距離を感じさせるBメロの"You"は世間一般の声を指していると捉えてみます。そしてサビのSallyは特別な相手のことだと考えてみると。
この歌い手は、どうしてベッドからの革命を志すのか?
それは、お前はうぬぼれていると忠告されたり、真夏なんだから外に出ろとか、暖炉の横に立ってみろとか、そんな表情をするなとか、そうした(世間一般からは良かれと思われがちな)発言を耳にしても、心が燃え尽きることは無かったからでした。
(つまり、2行目の"Cos you said"の範囲が5行目まで続いているという解釈です。)
そして藤野もまた、同級生と遊んだり姉に空手を習ったり家族と(おそらく映画を観て)過ごしていてもなお、漫画への想いは燃え尽きることなく残っていました。
ここで歌われているSallyに対応するのは京本であろうと思われます。
京本は不登校で時間は有り余っていて、けれども藤野の才能を眩しく受け止めていたので、一緒に並んで歩くなど考えられない状態でした。
そのように遠ざかろうとする京本の想いは、挫折を味わわされた藤野からすれば怒りすら覚えるものだったかもしれません。
それでも藤野はその怒りを表に出すよりも、京本と一緒に漫画を描いていく道を選びました。
藤野は京本を色んな場所へと連れ回して、昼夜を共に過ごします。
けれども「一人の力で生きてみたい」「もっと絵…上手くなりたい」という気持ちが京本に芽生えたことで、二人は道を違えることになります。
藤野は怒りもその他の感情も呑み込んで、漫画を描くことに今まで以上にのめり込んで行きました。
──京本の死によって再び心を折られるまでは。
その2.空想の中の2016年1月10日まで(p.096-123)/ David Bowie
解釈の中にファンタジーをひとつまみ入れるか否かは意見が分かれそうですが、ここでは可能な限り現実的に考えたいと思います。
破り捨てた四コマ漫画が京本の部屋に入って行くのを見て、藤野は空想の世界に浸ります。
それは二人が出逢わなかったifでした。
空想の中の京本はやはり絵に魅せられて、一人で外の世界に飛び出して美術の大学に入学して、そこで運命の日を迎えます。
その年その日にDavid Bowieは亡くなりました。
この曲のMVはオスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』を意識した内容で、David Bowieが引き籠もりの画家に扮しています。
空想の中の藤野は空手の腕を磨きながら、通り魔が大学に現れる日を待ち続けます。
藤野が怒りに身を焦がしていることは、カラテキックを放った時やパンチを繰り出そうとした時の目(特に下側の輪郭の描き方)を見れば一目瞭然でした。
その怒りを持続させ、不審者のイメージを藤野の中で固着させたのは、おそらくは小学生の頃に無神経な発言をした男子生徒だったのでしょう。
たとえ心を折られなかったとしても、藤野は傷ついていないわけでは無かったのです。
けれども涙目の京本が見上げた先の藤野は目に明確な意思を宿していて、眉の反り具合も適度な範囲に止まっていて、淀みを感じさせない表情でした。
そうした顔つきを目の当たりにした京本は、藤野のことを宙を舞う特別な存在=スターのようだと考えたのかもしれません。
この曲も"Don't Look Back in Anger"も、サビの直前に演奏によるタメの時間が存在しています。けれどもサビに向けて素直な盛り上がりを見せるOasisの曲とは違って、"Starman"の演奏には不安を呼び起こす警戒音のような響きが含まれています。
それは『ルックバック』においては、棟内に侵入した男が工具を振り上げた場面と対応しているようにも思いますし、"Starman"と同様に藤野の心にもためらいの感情が過ぎったからとも考えられるでしょう。
それでも空想の中の藤野は暴漢に立ち向かうことを選びました。
せっかくの機会を台無しにしないように。
なぜなら、京本がどれほど大切な存在なのかを藤野は身に染みて理解しているからです。
そんなふうにして空想の中で自らを慰めていた藤野ですが、自分自身を飾り立てようとするほどに、己の現状が惨めで無様に思えて来たのではないでしょうか。
それはあたかも、1980年代を迎えたDavid Bowieが感じていたのと同じように。
この歌詞にある"kick"には「悪習・悪癖などを絶つ」という意味があり、それはつまり「絶つべき悪習を持ち合わせている」ということでもあります。
ここの部分は解釈次第では、金や髪が無いことよりも薬物中毒から抜け出したい気持ちが上回っていると受け取ることもできるのでしょう。
いずれにせよトム少佐の現状は酷いもので、そして薬物とは厄介なものなので、天にも昇るような心地がしたかと思えば史上最悪な気分に陥ることもある。
それはトム少佐の体験でもあり、気分の浮き沈みという意味ではDavid Bowieも、そして空想の世界に逃避していた藤野も似たようなものだったと思われます。
そんな二人に向けた母親からの忠告は二つ。
一つは、物事を最後までやり遂げること。
もう一つは、トム少佐と関わりを持たないこと。
ろくでなしと関わって人生を棒に振るようなことはダメだと思い至ったところで、この話は以下の歌詞へと繋がることになります。
その3.現実の2016年1月10日に立ち戻って(p.124-142)/ Oasis
この歌い手にとってのベッドからの革命は、藤野にとっては机に向かって漫画を描くことに対応しているのでしょう。
そのためには、しっかりと目を見開いて現実を見据えなければなりません。
暗い廊下で膝を抱えてうずくまっていた藤野の目に飛び込んできたのは、京本の部屋から飛んで来た四コマ漫画でした。
さて、まずは事実確認から始めましょう。
この四コマ漫画は藤野の絵で、セリフやタイトルも藤野の字であるように思えます。
けれども作者名がどちらの字かは判別しにくく(どちらかと言えば藤野の字に見えるのですが、繰り返し見比べていると分からなくなって来ました)、そもそも京本の名前が記されています。
これをどう考えれば良いのでしょうか?
京本が絵も文字も藤野に似せて描いたのだと解釈するのが無難なようにも思うのですが、ここまで似せることが可能なのかと問われると口ごもってしまいます。
では、藤野が描いたと考えればどうでしょうか?
その場合だと、作者名が京本なのは何故なのかという問題を解決しなければなりません。
そして解決のヒントはこの直後、藤野が怒りの感情を伴わせず思い出した過去の二人のやり取りの中にあるのではないかと思います。
結論を言うと、この四コマ漫画は京本がネームを担当して藤野が作画を担当した作品ではないかと私は考えました。
そして合作の記憶が朧気にあったからこそ、不審者と対峙してから怪我をして救急車で運ばれて行くまでの一連の流れを、他の空想よりも詳細に思い描けたのではないかと思うのです。
でもそれだと、藤野がネームも作画も担当した可能性を排除できないではないかと思われるかもしれません。
それを解決するのは四コマ漫画のオチの部分で、これは自虐オチと呼んでも良いように思います。
一方で藤野が描いた四コマ漫画は「どやっ!」と自らを誇るような気配が強く、刃物が背中に刺さった姿をユーモラスに描く画風とは一致しないように思えるのです。
今となっては遠い過去に、京本と役割を入れ替えて作った四コマ漫画と思いがけず再会して。そして京本の部屋で一人の読者として自作と向き合ったことで、藤野は再び復活を遂げたのではないかと私は受け取りました。
二番のサビでは、Sally=京本は既に手遅れなのだと知っています。
京本が藤野と共に歩んでいくことはできないし、藤野の想いも少しずつ離れていくことになるはずです。
それでも、もうこの世に存在していないからこそ、京本には待つ時間がいくらでもあります。
それに対して藤野の時間は有限であり、怒りに囚われて過去を振り返っていられるような余裕はありません。
それをするのは、少なくとも今では無いのでしょう。
終わりに
漫画と楽曲を連動させて解釈してきたわけですが、作者さんが実際にここまで考えて話を構築していたのかと言われるとそれは分かりません。
私が本稿で示したかったのは、どれほど才能に満ちた作者であれ作品をゼロから仕上げるようなことは不可能ですが、既存の作品を消化・吸収してそれを作中に溶け込ませることで自作に深みを持たせることは可能で、それは終わりのない作業だということです。
つまりやり方次第ではいくらでも深めることができるんですよね。
今回取り上げた『ルックバック』は作品の構成としてはシンプルなもので、(二つ目のパートをフィクションと捉えるか否かで意見が分かれるとしても)ほぼ一直線と言って良いように思います。
けれどもパロディの処理という面ではなかなかに手が込んでいて、それが藤野と京本という二人のキャラに深みを持たせているように思いました。
一方で、新作『さよなら絵梨』は構成が複雑というわけではないのですが積み重なっていて、登場するキャラの二面性が繰り返されます。
それは母や絵梨だけではなく主人公や父親も、更には映像には無い言及されただけのキャラたちですら持ち合わせているはずのもので、けれども存在としてはいずれも薄い状態で留まっています。
こうした特徴は作品の良し悪しに繋がるものではなく、ただタイプが違うだけという話に過ぎないのですが、率直に言うと考察しがいのない(自由度が高すぎる)作品に思えました。
これらの印象が正しいのであれば、『ルックバック』と『さよなら絵梨』は作者にとっては習作として位置づけられるものだと考えられます。
だからこそ重点を置く場所をはっきり区別して描き上げたように思えますし、これらの作品の評価は来る長編作品の出来映えによって下されるべきではないかと思ったのでした。
なお、『ルックバック』については作品の内容だけではなく発表の日時が理由で話題になったという経緯もあり、けれどもそうした側面は今後新たに読み始める方々にとっては意味の薄い要素になるのではないかと思いますし、そうなって欲しいと思っています。
そして作中に登場する暴漢の言動についても侃々諤々がありましたが、詳しくは以下を参照して下さい。個人的には、これは正答が意味をなさない、一人一人が考えるべき問題だと思っています。
作品の解釈において文字情報はとても重要な要素であり、決して疎かにはできません。
けれども本稿ではそれに加えて、絵についての考察や演奏についての解釈にも言及できて、書いていてとても楽しかったです。
読んで下さった方々にも楽しんで頂けていると良いなと願いつつ、最後まで目を通して下さってありがとうございました!
次回はピンドラについて書くか、俺ガイル14巻について何かを書きたいと思っています。