ファシズムへの恐れによる偶像破壊の時代と健全な偶像性の復活について

9月14日(木)晴れ

昨日は母を松本に連れていくなどして忙しく、仕事時間もギリギリになった。朝はいろいろとゴタゴタして、なかなかものを書く時間が取れず、短い時間だが少し書こうと思う。

「ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読」で、芸術作品におけるアウラの消失というのは複製技術の進展に伴って進んだ、というのは「原理的に同じもの」が複数あるということでその「唯一無二の」個性が失われたということだろう。そしてそれが「唯一無二」に付随する神秘性とか天才性といったアウラを引き剥がした。そしてそれに無理にアウラを付随させようとする行為は「中身のない空虚な壮大性=ファシズム」を呼び込んだ、というのが著者の見立てであったと思う。

この辺りはワーグナーの言う天才性とか神話性というものと、ヒトラーの叫ぶ天才性とか神話性というものを比べてみればその中身のなさはわかりやすい。そういう、ある時代においては芸術に当然伴うと考えられたそうしたものもまた時代によって変化していくのだ、ということもまたベンヤミンの独創なのかなとも思う。

恐らくは天才自体は今の時代にもいて、それはアメリカなどでは頭角を表しやすいが、日本のような国ではうまく育てられないとか、そういうことは多分その通りだと思う。アメリカはヨーロッパのように、「ファシズムという怪物を産んでしまった」という原罪意識がない。日本の軍国主義も本当はファシズムではないのだが、「贖罪意識」から平等教育を過度に偏重させ、それがさまざまな歪みをもたらしたことも事実だろうと思う。

つまり、現代美術や現代音楽は、基本的に「偶像破壊の芸術」「芸術を破壊する芸術」であることを運命付けられていて、アメリカの現代美術はまた独特だけど、アートの中心がヨーロッパからニューヨークに移ったのもまた、そうした原罪に汚染されてない場所、ということが大きいのだなと思う。

しかし大衆芸術は必ずしもそれには縛られていなくて、新しいヒーローは次々に現れている。ただ、フェミニズムやBLM運動などのいわゆるwokeの運動はそれを破壊する可能性があるし、またAI技術の発展は俳優そのものを不要にする可能性もあり、その辺りでも変化はあるかもしれない。

サブカルチャー、例えばマンガにおいてはストーリーや物語の展開、あるいは文体などよりも、ヒットする条件としてはまず「キャラクター」だと言われている。キャラクターには性格が与えられ、身長や体格、眼鏡をかけているかなどの属性、話し方、年齢その他の読者にとってヒキのある性格が与えられている。読者がそれに惹かれるということは、つまりはある種の「偶像」なわけで、サブカルチャーは偶像破壊ではなく新しい偶像を作り続けることでその隆盛を築いている。

ナチスの悲惨によりナショナリズム的なものを逍遥するものとしての「芸術」を忌避するようになったことは、芸術以外にもさまざまな面に悪影響を及ぼしたし、日本でもそれは同様だったが、欧米ほど芸術の社会的地位が高くない日本では、より学問において「偶像破壊」が先鋭化したのだろうと思う。学術会議による軍事研究禁止など平和主義という形をとって学問のある分野を否定することが公然と行われ、また歴史学などでも「聖徳太子はいなかった」など偶像視されてきた歴史的人物を脱偶像視することが評価されるようになり、特に戦前、「大日本帝国の否定」がまるで立派なこと、当然のことのように扱われ、先人たちの努力は正当に評価されなくなるなどの弊害は強く起こっている。

ただ、戦後は長い間左派の言論空間がより正当なもの、より進歩的なものとして語られてきたけれども、社会主義国の崩壊はまた新たな危機を招いた。日本の歴史を否定し、ナショナリズムを否定し、過去の偶像を破壊することは「進歩のため、理想のための創造的破壊」であったのが、社会主義という理想が失われても方向を失った左派は偶像破壊をやめられず、ブルジョア階級の代わりに「支配的な男性」のような妄想の偶像を作り上げて、その偶像破壊に血道を上げることになり、つまりは「破壊のための破壊」になってしまっている。

その辺りはロシアや中国のような権威主義諸国からは滑稽に見え、また新興国からもwokeに文化的主導権を握られることが進歩だとするような西側諸国の「自由主義思想」(ちっとも自由ではなくなっているのだが)を警戒するようになっている。そうした欧米に反感を持ってもそれを自分たちで抑える力はないからそのための一つの防波堤としてロシアの存在感が世界で高まるという皮肉をもたらしている。

プーチンが持っている「大ロシアという偶像」はアナクロニズムであることは間違い無いのだが、どんな偶像でもアナクロニズムなのか、ということはきちんと検証してくべきだし、「その偶像が今の段階のこの国には必要」ということもあるのにwokeに取り憑かれるとそれを破壊することしか考えなくなるから拒否されるようになるのも無理はないわけで、そこのところが欧米諸国は自己認識が足りないということなのだと思う。

実際のところ、人間にはある程度の偶像は必要、特に自分自身の例えば「自信」や「アイデンティティ」というようなものも、その実態はあるといえばある、ないといえばない、というような部分もあるわけだから、ある種の偶像なわけで、しかしそれを破壊したらその人間は壊れてしまうから、そういう意味では偶像は必要なわけである。(それを破壊することを左翼は「自己批判」とか「総括」とか称した)

そして偶像が信頼される、あるいは礼拝されるにはアウラが必要なわけで、物語のようなものもそこで必要になる。偶像性というものはそういう意味で個人の存立のように必要不可欠でありながら暴走すればナチスの悲惨を招きかねないものではあるのだが、そのバランスをとっていくことを考えていかなければならないのだと思う。

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