清水俊史「ブッダという男」と馬場紀寿「初期仏教」を並行して読んでいる/アリストテレスを敬遠していた理由

12月11日(月)曇り

8時を過ぎているのに外が暗い。ただ気温はそんなに低くなく、最低気温も4度を超えていた。昨日は10時前に撃沈したが起きたら4時少し前で、まあまあ寝たかなという感じだが、寝る前に体のケアとかをもっとしておいた方が良かったと起きてから思うのは毎日同じだ。

今朝は時間があるからゆっくり大局的なことを考えて方針と構想と計画を練ろうと思っていたのだが、昨日読んだ本をブログに記録しようという気持ちもかなりあり、何をどうしようと考えているうちに時間が経つ、みたいなありがちな時間の罠にはまってしまった。とりあえず記録を先に書くことにしたのだけど、読んだ感想自体がなかなか大きいものを読んでる感があるのでどれだけ書けるかという逡巡もあって、まあそういうことで両方とも手をつけかねていた、というのが心情的真実なのかもしれない、と思ったり。


ネット上でかなり話題になっているのが清水俊史氏の著作「ブッダという男」(ちくま新書)。これはウェブで清水氏が受けたかなり強烈なアカデミックハラスメントについて後書きで触れられている。私はこれに関しては先に清水氏を支援していると思われる佐々木閑氏のPDF論文を読んだので、事情は大体知っていた(固有名詞は出ていなかった)のだが、清水氏自身がTwitterで実名を挙げていたのを読んで大枠はわかったという感じである。

私もインド哲学科には知り合いがいるのだがそういう感じの話(清水さんのことではなく彼自身のこと)も聞いたことがあり、人の苦しみを止めるための宗教である仏教を研究している人たちが人の苦しみを生むようなことをするのはいかがなものかと思ったのだが、名前の出てきた馬場紀寿さんの「初期仏教 ブッダの思想をたどる」(岩波新書)と読み比べてみようと思い、午後岡谷の書店に買いに行ったのだが、「ブッダという男」は入手できたが「初期仏教」の方はなかったので夕食の買い物をした後、その足で市の図書館へ行って「初期仏教」を借りてきた。

夕方以降、並行して読んでいたのだが、「初期仏教」の方は仏教の成立をアーリア人のインド到来から説き起こして歴史を語る形で述べており、まだ第1章「仏教の誕生」の2項「都市化が新思想を生んだ」まで(〜p.20)しか読めてない。この辺りはヤスパースの言う枢軸時代、ギリシアの哲学者たち、インドのシャカ、イランのゾロアスター、ユダヤ思想、中国の諸子百家などが一斉に登場した人類最初の都市化の時代のインドにおける現象という感じで捉えているのだなと思った。その時代のインドをアケメネス朝ペルシャの「帝国の周縁」と捉えていたり、あまり考えたことがないアプローチからの記述もあり、へえっと思うことがいくつかあった。

インドに入ってきた時のアーリア人たちが「遊牧民」なのかということに関しては、モンゴル高原で成立したような遊牧民というよりは、狩猟や牧畜を生業にし定着していたときには農耕も行う、くらいの生業形態ではなかったかと思ったので、ちょっと疑問には思った。

あとは、現代のジャイナ教徒が全人口の1%にも満たないのに、インドの所得税収の4分の1を占めるというのは普通に驚いた。

いずれにしても書かれている記述の時間のスパンが今の所大きく、まだ清水氏の本の内容と比べられる感じではないなと思ったし、当たり前だが対立している点は基本的にはそんなにたくさんはなくて、全体的な記述の中には共通した見解である部分がより多いのは当然だから、読んでいてどちらの本に書いてあったかわからなくなった、みたいなこともある。こういう読み方が良いのかどうかはなかなか難しいところではあると思った。

「ブッダという男」の方は第一部「ブッダを知る方法」のところまで(〜p.36)読んだ。大変面白いし迫力がある。これは、「初期仏教」の方が堅実な学者さんの現時点での研究成果、という形の「普通の新書」であるのに対し、「ブッダという男」の方は著者の方が人生を賭けた一冊、という雰囲気を感じるので同列に論じることではないだろうという感じがする。逆に言えばそういうものを読めるということは読者冥利に尽きるというもので、襟を正して読まねばならないという感じはする。

この本の基本的主張は、ブッダの思想のエッセンスはそれまでのインドを否定し新しい宇宙を打ち立てた先駆者性にあるということなのだが、どこにその先駆者性があるか、何を読めばいいかということで言えば、さまざまな宗派の中で共通に伝えられている部分こそがより古い内容を伝えている可能性があるということ、初期仏典でもダンマパダやスッタニパータなどの韻文は沙門宗教に共通するもので,仏教独自の革新性を反映したものではないという見解が述べられていて、これは初めて聞いたし驚いた。

というのは、私の父はもう14年前に亡くなっているのだが、僧侶の方々とダンマパダの研究会とかやってたからなのだが、その主張を聞いたら驚いただろうな、と思ったからである。私自身はちゃんと読んだことがあるとは言えないのだが、スッタニパータなどにしても「サイのツノのように一人歩め」みたいな有名な言葉もあるし、いい言葉だなと思っていたりもした。

仏典に出てくる仏陀の超能力を信じるかという話があって、そういえば手塚治虫「ブッダ」にも法力合戦で超能力を使う場面が出てくることを思い出した。しかし超能力を見せたその直後にそんなものは意味がないと否定する。怪力乱神を語らないといっても怪力乱心を操れないわけではない、みたいな超人性が語られていたのは悪くなかったような気がする。

「天上天下唯我独尊」について書かれた下りに関しては、ブッダはただ客観的に事実を述べた、みたいに考えていて、天才ってそういうもんだよね的な感じで捉えていたように思う。

しかし指摘されてみて思ったが、確かに手塚治虫をはじめみんなブッダを「普通の人」として描こうとしすぎてるようには思った。ブッダは間違いなく宗教的天才なんだからその捉え方は実はおかしいのだよなと思う。イエスも中山みきも麻原彰晃もみんな普通じゃないんだから、ブッダが我々が考えるような意味で「普通の人間」であるわけない。

ブッダを普通の人レベルに引き摺り下ろそうというのは確かに近代の人間中心主義というかヒューマニズムの産物なんだろうと思う。禅宗などには猫を叩っ斬っちゃう(南泉斬猫)人が出てくるわけで、その宗教の祖が「この世で私のみが尊い」と言って生まれてきてもそんなに変ではないよなと思う。

この本の指摘の通り、その思い込みは多分我々が思っているより強いわけで、近代に再解釈された新しいブッダの神話があって、我々が「ブッダその人」だと思っているのはその神話なんだ、という指摘はなるほどと考えさせられた。

そんな具合で、この2冊の本は読んでいると無限にいろいろなことを考えさせられる。そういう意味で読むのが大変だなと思うのだが、それはつまり案外自分は仏教やブッダに思い入れがあるのだということで、そういうことに気付かされたのは良かったと思う。


「対話のレトリック」の方は「怒り」についてのアリストテレスの分析のところを読んでいるのだが、こういう考え方をしたことがなかったのでとても面白いし、自分にとって「弁論術」は今まで読んだ哲学書で一番腑に落ちるというか、納得できるものだなと思った。

私がアリストテレスという人物を知ったのは、そういう人は多いと思うけれども、小学生の頃に読んだ子供向けのガリレオの伝記で「ガリレオは権威のあったアリストテレスの落下についての考え方が間違っていることを発見した」というものなので、それ以来自分の中でアリストテレスは「否定されるべき過去の権威・遺物」みたいな人物として定着してしまっていたのである。

高校では倫理社会でギリシャ哲学をやり、ソクラテス・プラトン・アリストテレスの三人の中で「無知の知」だとか「イデア論」に比べてアリストテレスは「質料と形相」とか言われてもなんだかよくわからないし、過去の権威で遺物でしかもわかりにくいんじゃなあと関心を持つ機会がその後なかったわけである。

西洋史をやっているとアリストテレスはよく引用されるのでこれは読まないといけないかなという気はしていたのだが、当時の岩波文庫は文字も小さくて表現も読みにくく、他に読むべきものもいくらでもあるからと読んでいなかったわけである。

しかし今になって「対話のレトリック」という1985年、つまり38年前に書かれた本を読むことによって、ようやくその面白さを知ることができたわけで、なんだか人生というのはいろいろ曲がりくねりすぎだなと思ったりする。そして素直にその世界の教養を身につけてきた人なら引っかからないようなところで引っかかってしまうのは、やりたいことがその時で二転三転してしまうように生きてきたからなので、まあこの歳になってようやく生きるべき場所を見出したような、そんな感じもするわけである。

この辺りもしっかり読んで理解していけると良いなと思う。

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