小澤征爾対談集を読む:「音楽は集中だ」/アメリカに不法入国する中国人たち/「セクシー田中さん」:セオリーを外して書かれた作品をセオリー通りに演出しようとして起こった無理

2月14日(水)晴れ

昨日は日中気温が11度まで上がり、だいぶ暖かくなったせいか、今朝の気温も晴れているのにマイナス2.8度と冷え込みが弱い。今日は13度まで上がるようなのでまた雪解けが進むと思うが、日陰はなかなか雪が融けないのである程度は処理しないといけない。

午後母を歯医者に連れていく予定だったので午前中に車検代の支払いをしたり銀行で記帳したり確定申告の書類を揃えて会計事務所に持って行ったりなど。早めにご飯を食べて母を歯医者に連れて行き、そのまま仕事に出たので、ご飯を仕掛けるのを忘れていて夜はパックご飯になった。


小澤征爾さんが書いた本、対談本などが何冊か出てきたことは昨日書いた。

書名をあげてみると、「ボクの音楽武者修行」(新潮文庫)、「小澤征爾 指揮者を語る」(PHP研究所)、小澤征爾・武満徹「音楽」(新潮社)、「対談と写真 小澤征爾」(ぎょうせい)、それにインタビューが掲載されている石戸谷結子「マエストロに乾杯」(光文社知恵の森文庫)である。正直、持ってはいるけど読んでなかったものがほとんどで、その中でも「ボクの音楽武者修行」だけは若くて無茶の音楽家がどんどん行く、みたいな話なのでとても面白く読んでいた。

小澤さんが亡くなられて、ここ数日地元の新聞「長野日報」にも小澤さんに関連した記事が掲載されている。これは「対談と写真 小澤征爾」にも「諏訪交響楽団の情熱」という題でエッセイが載せられているが、1964年のニューヨークからの帰国後に諏訪交響楽団という上諏訪のアマチュア楽団を指揮した時の思い出で、白樺派の流れを汲む老人が大正13年に私財を投じて作った楽団で、歴史から言えばN響より古いのだという。存在自体はともかく、その歴史については私自身全然知らなかったが、小澤さんも技術的には難があるが情熱に惹きつけられて2時間の予定が5時間練習し、それから演奏会に入ったのだという。

この経験がのちの松本におけるサイトウキネンオーケストラの演奏会につながっていく、というようなことを新聞で読んだが、諏訪も昔はそれだけのパワーを持っていたのだなと感動する部分があった。

そういうこともあって小澤さんに対する関心が高まっていたところ、一昨日いろいろ考えたり読んだりして小澤さんが「非主流から出てきたスーパースター」であることに思い当たり、昨日の記事を書いたわけである。

昨日は主に武満徹さんとの対談本「音楽」を読んでいたのだが、これは本当に面白く、破天荒な人柄ながら音楽にかける情熱はものすごくて、休みがあってもずっと集中して楽譜を読んだり「勉強」している、というのが印象的だった。

小澤征爾さんが桐朋学園における師匠の斎藤秀雄さんを語りだすと止まらない。「結局音楽は集中だ、自分の体を自在にコントロールする方法、いつ力を抜き、いつ力を入れるかを徹底的に叩き込まれた」という。武満さんと話をしていると、音楽家同士だから通じる話が多くてとても面白い。

つまり、結局は音楽家でない人にインタビューされたときの答えというのはサーヴィスに過ぎなくて、音楽家との話の方が本音が出てくるのだよなあと思う。役者とかでもそうだと思うが、芸談を語っていても相手が役者であると内容は全然違ってくると思う。NHKアナウンサーのインタビューもまあいいのだけど、やはりそれは「(視聴者)サービス」だよなと思う。

「集中」とか「体のコントロール」の話というのは音楽だけでなく身体を使うあらゆることに関係する話だし、歳をとってくると若い頃のようには体が動かないから、どうやればより無理なく、より効率的に動けるかとか私などはいつも考えていて、こういう話はとても面白く感じるのだった。

カラヤンの教え方も面白い。「演奏を盛り上がらせるためには聴衆の心理状態になり、理性的に少しずつ盛り上げていき、最後の土壇場に来たら全精神と肉体をぶつけよ、そうすれば客もオーケストラも自分自身も満足する」といったのだという。土壇場はまあそうだろうなと思うが、盛り上げる過程は「理性的に少しずつ」やるべき、というのはちょっと目を開かされた。その辺が私などは直感的になりがちなので、そういう考え方は確かに後に「満足」を残すためには大事かもしれないなと思った。

まだまだ小澤さんの語りは面白いことの宝庫だとわかったので、また読んでいきたいと思う。


中国の経済成長の鈍化が伝えられているが、今日読んだ記事は衝撃的だった。

中国からアメリカに移民する人たちは、富裕層が中心だと思っていたし、また技術も持っているからいくらビザが厳しくなっているといっても大したことはないだろう、くらいに思っていたのだけど、実はメキシコ国境からアメリカに不法入国する中国人が激増していて、2023年には37000人もいたのだという。

インタビューした人は山東省出身で、12月21日にタイに出国、トルコを経てエクアドルに飛び、車でコロンビアまで行った後熱帯雨林を抜けてパナマ運河を越え、車でメキシコに行った後密入国業者の手助けでアメリカに入国したのが2月4日なのだという。

年齢層は30−40代が多く、中国の将来を見限ってアメリカへの不法入国に人生を賭けた、という感じの人たちで、マンションの販売員だとか中国医学の医師だとか会計士だとか、貧しくはないけど豊かではない普通の人たちが多いのだという。ほとんどの人たちが英語を喋れないのだというのも少し驚きだった。

日本でこういうことが起こらないのは、要は生活や医療・福祉が比較的にしっかりしているからだろう。いくら経済成長が華々しくても、民生までは行き届いていないのが中国の現状だからだと思うが、英語を話せない人まで米国入りを目指すというのは、現代の日本ではまだあまり考えられないのではないかとは思った。それだけ中国の経済や社会には行き詰まりがあるということなのだとは思うが、今後も見ていかないといけないなと思った。

どうしてもウクライナやパレスチナなど今まさに戦争が行われているところに関心が行ってしまうけれども、日本の近くで起こっていること、世界で起こっていることも押さえて行きたいと思う。

この記事は有料記事だが、日経に会員登録すれば1本だけは無料で読めるので、割とおすすめだと思う。


「セクシー田中さん」をめぐる様々な人たちの様々な言説があるが、昨日読んだもので印象に残ったものを一つ。

この人はテレビ局のプロデューサー側の人で、今は大学にいるのでより客観的に言えるようだけれども、自分が思ったことを2点、プロデューサーが何を失敗したのか、なぜこのように改変されたのか、ということに絞って書いてみたいと思う。

番組の制作に関してはプロデューサーが全権責任を負っているので、トラブルが起こったら結局はプロデューサーの責任になるわけだけど、今回は日本テレビ側からプロデューサーの責任に対するコメントはない。もちろん今のままでゴリ押しするというのも難しいと感じてはいると思うのだが、責任も認められないし同じようにはできない、という事情や思惑がいろいろあるのだろうとは思う。

プロデューサーは全てを総合的に把握し、全てをケアする必要がある中で、今回の件に関してはまず「原作者の芦原妃名子さんの要求を掴み損ねた」ということがあるだろうと思う。内容を改変しないでほしい、ということについて、優先度を低く設定していたのだろう。その結果、脚本家側に不満を残し、そのためにSNSで不満を漏らしたり批判したりされることになった。つまり、二つ目は脚本家のケアに問題があった、ということである。そして、そういうトラブルを好餌としているマスコミに対し、脇が甘く、脚本家の不満を書き立てられてしまったということがあったようだ。それに対し原作者は事情を説明せざるを得ず、トラブルが拡大した、ということなのだろう。つまり、三つ目はマスコミ対策が不十分だった、ということになる。

もちろん最大の問題は芦原さんの意向を十分に尊重していなかった、ということに尽きると思うのだが、激務であるプロデューサーがフォローしきれない事態というのはいくらでもあり、また予算が限られ主演級の俳優が限られるなどの状況の中で「もともと無理がある」状況だったとも言えるわけで、そうした状況に巻き込まれる原作者の側が被害を受けやすくなっているということなのだと思う。

二つ目はなぜこのような改変が行われたかということだが、ドラマをヒットさせるための三つの要素として「ラブ」「サスペンス」「ヒューマン」があるという前提でドラマ制作者が動いているということが大きいのだと思った。レンタルビデオ屋の陳列棚みたいな要素わけだが、地上波は視聴者の年齢層が高いので、そういう共感性が高い要素が重視されるのだという。

だから芦原さんがもう削除されたブログで述べていた、「漫画で敢えてセオリーを外して描いた展開を、よくある王道の展開に変えられてしまう」「個性の強い各キャラクター、特に朱里・小西・進吾は原作から大きくかけ離れた別人のようなキャラクターに変更される」「性被害未遂・アフターピル・男性の生きづらさ・小西と進吾の長い対話等、私が作品の核として大切に描いたシーンは、大幅にカットや削除され、まともに描かれておらず」というような不満は、もともと実現が困難だったということになる。

セオリーを外して書かれた作品をセオリー通りに演出しようとしたら無理が出るに決まっている。

原作もラブやサスペンスがゼロではないし、うまく要素として使われていると思うが、それを中心にしようとされたら違う作品になってしまうだろう。また「ヒューマン」ということに関して言えば、「自立」もヒューマニティのテーマにはなりえるけれども「全米が泣いた」みたいにはなりにくい。特に「女性の自立」に関してはいろいろな感覚が視聴者にはあるし、押し付けがましいと思われたら終わりだ、という感覚もあるだろう。そういうところでとりあえず無難に演出したい、というのがあったと思うのだが、その辺で原作者の意図も刈り取られてしまったのだろうなあと思う。姉プチという掲載誌を先日少し読んでみたが、ここにおいてもやはり突出した存在であったように思うし、編集者も芦原さんの意図の深さまでは十分には理解していなかった可能性もあるのかな、とは思った。

オールドメディアである地上波において、尖った部分のある現代の人気マンガ作品を「そのまま」ドラマ化するというのは、つまりは現状においては不可能だと考えた方がいいのではないか、というのがこの文を読んだ感想だし、ドラマ化が持ち上がったときには「できない」ことを前提にやるかやらないかを考えるのが現状では必要なのかなという感想を持ったのだった。


小澤さんが武満さんとの対談の中で、桐朋学園の後輩たちに指導をしたときに、「全然勉強も練習も足りない」と不満を述べていたのだが、勉強というのはつまり曲を掴んでくるということだけど、日本のドラマ制作というのもヒットの方が先に立ってしまって「原作の勉強」が足りないのだなと思う。武満徹さんも自分の曲が誰に指揮されて演奏されるかはかなり気にしていて、小澤さんと知り合う前は「小澤征爾にはやらせないでくれ」といったこともあるらしく、結局小澤さんになったので渋々聞きに行ったら良くて、話をしてみたら深く曲を理解する努力がすごいということを知って認識が全く変わった、みたいなことがあったようだ。

テレビもたくさんのコンテンツが必要とされていることはわかるが、やはりもっと余裕を持って良い作品を作っていく方向に変わってくれると良いなあとは思う。これからもテレビが生き残っていくためには、そのための態勢づくりということが必要になってくるのだろうと思うのだけど。

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