知的生活の優先順位/リベラルなグローバリズムと保守主義的な国際協調主義
12月26日(火)晴れ
昨日一昨日と東京の自宅に帰っていたのだが、クリスマスイブの日曜日にぶつかったのでちょっと人が多い街に外出する気にならず、疲れていたこともあって日曜日は家でぼーっとして過ごし、夕方買い物に行って夕食を食べて寝た。月曜日は早く起きていろいろやっていたのだけど、どうもあまり調子が出ずに、お昼前に日本橋に出かけて本を見るのと帰りの切符を取るのとで東京駅の日本橋口から八重洲北口あたりを回ったが人が多くて自分のペースで歩けず、モバイルSuicaをチャージするためにセブンイレブンを探していたのだがそれも見つからず、日本橋口も八重洲北口もJR東海の切符売り場だったのでえきネット予約が受け取れず、地下に降りてようやく受け取り、日本橋に戻って丸善へ行った。途中郵便局でお金をおろしたがすごい行列で、月曜日の25日の昼休みに一つしかATMがない郵便局に行くバカがいるかと思ったが、こういうところがふだん東京にいないと頭が回らないわけで、全然思い通りには運ばなかった。
とりあえず丸善日本橋店の2階で「ハイスコアガールダッシュ」の5巻は見つけて買ったが前日に見ていたハゾニー「ナショナリズムの美徳」(東洋経済新報社、2021)は見つからず、高島屋で弁当を買って地下鉄に乗り、地元の駅前のみずほ銀行でお金をおろそうと思ったらここも行列で、郵便局のATMでお金をおろして郵便局の口座にお金を移したりした。駅近にセブンイレブンがないので公園の方に歩いて一つ目のセブンでモバイルSuicaにチャージしたのだが、このルートにはもう一軒セブンがあるのでなんとなく無駄足を踏んだ気持ちになった。そんなことはないんだけど。
家に帰った後、しばらく時間はあるのだけどどうもいろいろやる気にならず、ものを書こうかと思ったがそういう気持ちにもならなくて、ブラームスをまた聴いたり気分転換にとゲームをやってみたりしたがどうも気が乗らない。早めに実家に戻るようにできたら良いのだがえきネット予約は当日に切符を変えられない、というか変えたら結局割引率がゼロになってしまうのでそこまで早めることもないかと思って本棚の本をいろいろみたりしていたのだけど、多分今しか読む時間がないものを持って戻りたくなるので荷物が増えるなと思ってそれも気が乗らなかった。
今思うと、どうも雑務的なことがいろいろうまくいかないということに引っかかってしまっていたのだなと思う。せっかく東京に来ているのだから東京でしかできないことを、と思って出かける先を考えるのだが、どこへ行っても月曜日は十分な時間が取れない。火曜日の朝イチで戻るという手もなくはないのだが、それはそれで寝る前に緊張があってよく眠れないのでそれも困る。予定に可変性を持たせられない切符というのは困るなと思う。
結局6時ごろ家を出てバスで地元の駅まで行き、丸の内の丸善に行ってビッグガンガンとアフタヌーンを買って、「ナショナリズムの美徳」も見つけられたのだがいろいろ考えてマケプレで買うことにし、カフェでハヤシライスなどを食べたが窓際の席が空いてなかったのでなんとなく狭苦しかった。とりあえず余裕を持って東京駅を出て、中央線に乗ったが発車直前になって中野駅で信号故障で運転再開見込み立たず、という。しばらく待ったが動く気配がないのでとりあえず新宿駅に行こうと京浜東北線のホームまで歩いて乗り換え、秋葉原で総武線に乗ったらお茶ノ水駅で中央快速線が動いているのが見え、なんだ動いたのかとお茶の水で降りたら来た電車は自分が乗って待っていた電車で、結局は動かないのが正解だったのだった。
さてこれで8時の特急に間に合うのかと思いながら新宿駅に行くと、乗る特急はまだ入線したばかりだったようで発車準備作業に入ったところだった。考えてみたら中野駅で信号故障ということは上りも下りも動けないから特急も動けなかったわけで、結局20分遅れくらいで出発したが、まあこれは次回に覚えておこうと思った。毎回うまく行くとは限らないが。
しかし動き出しても何度も止まるの繰り返しで、地元の駅には10時過ぎに着くはずだったのに11時過ぎになり、職場の駐車場まで歩いて車に乗って帰ったら11時半、なんとなくすぐ寝る気にもならなくて12時半くらいに床に入ったのだが眠れなくて、結局朝まで何度もトイレに立ちながらとりあえず5時半までは布団の中にいたが、意識がない時間がどれくらいあったのか、よくわからない。今日はあまり無理しなようにしようとは思う。
まあとにかくいろいろと思い通りにはいかなかったのだが、そんなことはよくあることだから、そこでうまく時間を使えなかったのはうまくいかないときの立て直しができてないのだなと思った。うまくいかない時というのは基本的なルーチンに帰るべきであって、せっかく「初期仏教」を入手したのだからそれを読めばよかったのだと今にしては思う。書けない時は読む、読めない時は書く。どちらもできなかった本棚を整理したり、身の回りを片付ける。洗濯をする。掃除をする。シンクを磨く。東京の家は集合住宅だから家周りの仕事というのはあまりないが、家の中の仕事で普段できてないことはたくさんあるので、そういうこともやればいいなと思う。ただ優先順位は書くことと読むことを先にすべきで、それがわからなくなると迷うのだなと思った。
私は基本的に効率厨というか段取り厨、手順厨みたいなところがあるので、基本的に段取りとか手順、優先順位がはっきりしていると落ち着くところがある。それがうまく回らないとイライラしてしまうところはあるのだが、そうなるということはそれがうまく回っていないということなので、それはつまり段取りの立て方が悪かったということだったり、優先順位の付け方が良くなかったりということなわけである。
自分が何をやりたいのかよく見えなかった時には結局読むことや書くことを後回しにしてしまって迷宮にはいることが多かったのだよなと思う。自分がしたいのはまず第一段階として「知的生活」である、と割り切ることによってその辺りはだいぶ解決したなと思うのだが、そこから離れる時間が長くなると自分を見失いがちになることはいまだにある。
東京の自宅にいるとコンパクトな生活空間の中で本棚やレコード、CDやマンガに囲まれている状況にあるから、いるだけで知的生活みたいなところはあり、前回の帰宅ではまあそんな感じで良かったのだが、今回はそのスイッチがうまく入らなかった。本当は日曜の朝ももっとゆっくり家を出て午後出かけるパターンが一昨日は良かったなと思うのだけど、その時の体調というのは切符の予約時点ではわからないので、こういう仕組みも若い健康な人を前提にしてできているのだよなあと思ったりする。
リベラルな進歩主義はどの国においても同じ方向に向かって目標を実現しようとするから国際的に画一的になり、特に現代のリベラルの運動はアメリカが発信源であることが多いからアメリカの事情に基づいた方向に物事を強引に動かそうとする勢力が狷介に反対勢力を薙ぎ倒そうとしてくるわけで、それ自体がある種妄執のようになっていることが多い。
一方で保守的な立場では「今そうであること」「今までそうであったこと」を尊重しようとするから、国際的に見ればそれぞれの国の文化を尊重して、急激に変化しないように注意する、というような方向になる。いわゆる「欧米出羽守」はそういうリベラル方向に人たちが「日本は遅れてる(その考え自体が文化の進化を単線的に捉えていて要はエスノセントリズムなのだが)」というのだが、彼らは概して運動の起こった国のやり方を杓子定規にそのまま実行しようとするから文化的背景を無視して暴力的に動くことが多い。そういうものを批判し、より緩やかな変化に、場合によっては変化そのものを押しとどめようとするのが保守の役割であり、そういう意味では国際的な保守主義というのはそこにおいて成立する。つまり、「思想のグローバリズムではない、お互いの文化を尊重し合う国際主義」というものがそこにある、ということである。
もともとグローバリズム的性格を持つ一神教文化、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教と、我々のような多神教文化とは共存するのは困難は伴うが、「お互いを尊重する」という一点において、成り立たせていくしかないのだよなと思う。
「初期仏教」も少し読んだが、それはまた後ほど。
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