「僕のヒーローアカデミア」最終42巻を読んだ:派手なヒーローアクションコミックの背後にある教育・家庭・学校といった骨太のテーマに考えさせられることが多かった/マンガ作品の最終回ラッシュ

12月5日(木)晴れ

いろいろやることがあって、結構片付けてはいるのだが、家の中でパソコンに向かったり本を読んだりの仕事が多いから、何をどうやったか昨日のことを思い出そうとしてもちゃんと思い出せないことが多い。仕事をひと段落つけて10時半ごろ外出し、銀行に行ってお金の世話を少ししてツタヤでジャンプコミックスを9冊買い、スーパーに行ってお昼の買い物などを少しして花を買って、真っ直ぐお墓に向かう。

昨日は父の命日だったのでお墓参りをしようと思って行ったのだけど、近くのお墓で石屋さんが工事をしていた。父の埋葬の時には世話になった家なので何か懐かしいなと思いながらお参りし、○さんが工事してるよ、懐かしいねと言いながら、南無妙法蓮華経と題目を3回唱えた。家に帰ってみると、調整を頼んでいた温泉のタンクの音が止まっていたので水道屋さんに電話してお礼を言う。こう言う細かいことが素人にはできないので小さな仕事で申し訳ないといつも思いながらお願いしている。

昼食を食べて少し横になったらかなりうつらうつらしてしまい、起きてから仕事の続きを少しした。自分が無意識にやってきたことの言語化なので結構難しい面が多いのだけど、今までやってきた仕事がどう言うものだったのかをまとめることは、自分にとっても意味のあることだなと思えてきたので、なんとかまとめたいと思う。

昨日買ったジャンプコミックスは「鵺の陰陽師」7巻、「アオのハコ」18巻、「僕のヒーローアカデミア」42巻(最終巻)、「逃げ上手の若君」18巻、「チェンソーマン」19巻、「忘却バッテリー」20巻、「ごぜほたる」3巻(最終巻)、「放課後ひみつクラブ」7巻、「対世界用魔法少女つばめ」4巻。

「ヒロアカ」と「ごぜほたる」が最終巻、「つばめ」もジャンプラではすでに連載が終了している。「放課後ひみつクラブ」も次回が連載最終回なので、9冊のうち4冊が終わったか終わりが見えていると言う感じで、今年は本当に「今年で終わる」作品が多かったなと思った。「呪術廻戦」もすでに連載は終了し単行本を待つだけだが、年末に2冊出る。


まだ買ったもの全部は読んでいないが、「僕のヒーローアカデミア」42巻を読んだ。ヒロアカのようなアクションバトル漫画は、連載で読んでいても前回のことを忘れていることが多く、どう言う話だったのかよくわからなくなることがよくある。ヒロアカもかなり前のところから一度読み直さないと全体が掴めないなと思うのだけど、昨日読んだ42巻だけでもかなり良かったので感想を書いておきたい。

昨日読み終わった時の感想というのは、「この作品の大きなテーマの一つは教育なのかもしれない」ということだった。考えてみたら「アカデミア」だし舞台は雄英学園といういわば高校。「ヒーロー」を要請するエリート校ということだけが特殊だけれども、学校であることに変わりはない。

少年マンガのテーマに「成長」は常にあり、また「自己犠牲による更新へのバトンの受け渡し」もまた「NARUTO」などにもみられたが、よくあるテーマであるわけだけど、「先達」が「教師」となって後進を指導していくマンガ、というのは実はありそうでなかったのではないかと思う。

この作品の中では当初の絶対的ヒーローである「オールマイト」が力をうしない、彼のサイドキックも務めていたナイトアイの予言によれば「死ぬ」ということになっていて、その辺りが「自己犠牲による後進への受け渡し」になるのかな、と思っていたが、それをデクの母によって拒絶され、オールマイトはラストファイトの後も生き伸びることになるが、代わりにナイトアイが死ぬことでやはりそのパターンは現出してしまった。人が死ぬバトルマンガで、味方サイドが誰も死なないというわけにはやはりいかなかったのだなと思う。

(今思い出したが、オールマイトの師匠でもあった老人・グラントリノはどういうことになったのだったか。この辺りも読み直さないといけないなと思う。)

また、子供にとって重要なのは「学校」とともに「家庭」があるわけだけど、多くのヴィラン(敵)が家庭問題から生まれている、というのも一つのテーマになっていた。本人の性格もあるが、ある種の突出した「個性」を受け入れられない家庭・学校・社会というものがヴィランを生む、というのはワンピースのビッグマムでもそうだった。子供が読むマンガだからこそ、家庭の存在する位置は重い。この作品でも必ずしもそれがテーマではなかったのではないかと思うこともあったのだが、出てくると常に重い存在になるのが「家庭」の問題だった。ヴィラン連合の党首・死柄木の家庭もそうだが、一番クローズアップされていたのはエンデヴァーと轟の家庭だったわけだが。

ヒーローという存在は人を救う「特別の存在」であり、それを務める人は「救えなかった人」をいつまでも忘れられない。それはデクにとっては死柄木であり、お茶子にとってはトガなのだが、「人を救うために自分のことを忘れてしまう二人」、もっと正確に言えば「ある種の欠落を抱えた二人」が最後に「「麗日さん」ともっと話したいと思った。これからも、もっと。どうかな」「うん。気が合うね!」で付き合うことになった(よね?)のは、二人を救うことでもあり、二人が報われることでもあり、本当に良いエンドだなと思った。

お茶子はずっとトガのことを引きずっていて、それは「血が混じった」ことによってトガがまだ自分の中にいるかもしれないと思いながら、「みんなが特別」だと思ってきたけど、「その中でもお互いが特別」だと、死柄木がデクを、トガがお茶子の背中を押すというのは、最高だった。

また、デクが教師を選ぶのは一つのラストとしては良いとは思っていたけど、なんだか「個性=能力を失ってしまったから」そうなったと読めてしまう部分がちょっと物足りなかったのだけど、431話が付け足されたことでオールマイトが能力を失った後に使っていた「アーマー」の改良型を得たことでデクもまたヒーローとして活動が続けられるチャンスを得たけれども、それでも教師を選ぶ、という確固とした意思が示されたのもまた良いなと思った。

この誠実さがデクの良いところであり、オマケ漫画というのは本当に付け足しで終わることが多いのだけど、このヒロアカの42巻に関しては連載で物足りなかった二つの点、デクが教師になったのは後ろ向きではなかったこと、そしてデクとお茶子の未来が示されたことで、物語自体がまたさらに深まった、すごい「オマケ」であったと思ったのだった。

これらは、頑張っている仲間の中でさらに意識している二人が一緒になることに背中を押していると思うし、特に現実に疲弊している現場の先生たちにとって、「教師という生き方を選択した」ことが揺らいでいる人にとって、とても励まされる、或いは自分の意思を再度確かめられるラストだったんじゃないかと思う。

そういう意味で、「僕のヒーローアカデミア」は、少年の成長だけではなく、「教育というものそのもの」をテーマにした作品だったのだと改めて思った。


韓国の尹大統領の戒厳令とその取り消しという失速と、東アジア世界の危機について、書きたいこともあるのだが今日のところはこれで。

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kous37
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