腹痛とボーンヘッド/文学や文藝の持つ力:「世界に宿る魔」と「本当の狂人」/奈良美智展と自分の中の「小さきものたち」

2月23日(金・祝)雪

今日は天皇誕生日。天皇陛下64歳の誕生日だが、我々の世代ではいまだに「浩宮さま」というイメージが残っている。実際、我々の世代には「浩」とか「浩行」とか「浩子」という名前が多く、前の世代の「秀樹」が多い時代と(もちろんノーベル賞の湯川秀樹博士の影響)対照的だなと思う。あの浩宮さまがご立派な天皇陛下に、というのは我々の世代のある種の感慨としてはある。

昨日は午前中母を病院に連れていったが、いろいろアクシデントが多くて大変だった。高齢者を相手にしていると思いがけないことが起こることはよくあるのだが、昨日は結構限界まで頑張った感じで、午後ぐてーっと休んでいたら腹が痛くなってきてトイレに籠る感じになったのだが、よく考えてみるとピーナツ入りチョコレートを食べ過ぎているのでそのせいがあったかなと思う。やはり歳をとってくるとああいうものよりは和菓子の方がお腹に優しいということだろう。

病院に行く前に銀行に書類を出しに行ったり、母を施設に送ってからもいろいろやっていたのだが、それでもやりきれてないことは多く、会計事務所から電話がかかってきて確定申告のために預けていた固定資産税の書類が令和4年度ぶんのものなので令和5年度分のものを持ってきてくれと言われてうわそんなミスを、と思ったりした。まあ案外そういうことをやってしまうのだよな。確定申告のシーズンだから今日もやっているらしいので、ちゃんと届けたいと思う。


文学・文藝の力が社会を変えると信じられていた時代があった、今はすでにそれ自体が「好悪じゃなく意味不明」になってるのではないか、という話をTwitterで読んだのだが、社会を変えるだけでなく社会を維持する方向にしても、文学・文藝がそういう力を持ってないと考えることの方が割と不思議だなと思う。

今の日本の文学や文藝にその力がないことは確かだけど、アプリオリに言えることではないと思うし、フェミニズムやポリコレ、LGBTやSDG'sなどの大文字の、というか押し付けがましい思想で社会を変えようとする方向性よりはよほどマシだと思う。

ただ、こういう言葉で語られるときに出てくる村上春樹氏などの言説が社会を変え得るか、といえばそれは私自身にしても否定的だ。しかし例えばカズオ・イシグロ氏のいう「タテへの旅」というテーゼなどは十分に力を持った言説で、階級分断の固定化に十分対抗し得る思想であり提案だと思う。

現実の日本では、今の日本で社会を変える力を持ってるのは文学・文藝よりはマンガだ、と言われればその可能性はあるなとは思う。ただ、自分の中ではマンガは「広義の文藝」ではあるので、日テレ原作者迫害事件など、時々現れるマンガ蔑視、マンガ家蔑視の思想の方にむしろ驚くのだが。どう考えても今日本で一番生産力の高いジャンルはマンガに決まっていると思うし、それを蔑ろにしようとするから「コンテンツ産業(笑)」がしっぺ返しを受けるのだと思う。

また文芸評論が以前のように大所高所から政治や社会、世の中の行く末を論じるものではなくなってきて、その大きな転換点が東日本大震災とSNSの一般化だ、という見解に対してはそういう部分はあるかもしれないとは思う。また、そういう動きは立花隆さんとか内田樹さんとか「知の巨人」みたいなキャッチフレーズで語られた人たちの権威が凋落し、「王様は裸だ」ということが明らかになってきているのと軌を一にしているという話があったが、もともと立花隆さんからして必ずしも預言者的な力というか次世代を作り出すような力を持っているとはあまり思っていなかった(今の言葉で言えば、当時から解像度は低かった)と思う。むしろ本多勝一さんのような思想的には賛同できないけどそれなりの説得力のある言説を発する人が減っているという感じがあり、それはむしろ内容的にも筆力的にもそういう人たちの「文章の力が落ちてきている」からではないかと思う。

それはいろいろな理由はあるが、新しく出てくる人たちがどうにも「文章の力」というものそれ自体を軽く見るようになってきているのではないかという気がする。今でも小林秀雄などの文章は読んでいても発見があるし、文章それ自体の力を感じる。彼の批評は印象批評と言われることもあるが、もちろん批評としてあまりうまく行っていない場合もあるにしても、自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の頭で考え、自分の心で感じたことをちゃんと書いていると思う。

それに比べると、柄谷行人さん以来の批評理論に依拠した批評のようなものはどうにも自分の内側から出てきたという感じに読めないことが多い。まあ彼らの内側にあるものが自分にはなくてだからそれがそう感じられないということはあるのかもしれないが、つまりそういうところで内的な共感ができない感じがするわけである。

これはつまり、彼らが「知っていることを書いている」からなのではないかという気がする。子どもの絵と大人の絵とどこが違うかというと、子供は知っていることを描き、大人は見たことを描く、ということを読んだことがある。つまり、りんごに釘が刺さって貫通しているものの絵を描けと言われたとき、子供はりんごを書いてそれに釘を貫通させる。りんごの中にある釘の絵も描くわけである。しかし大人はもちろん釘が貫いていることは知っているが、中は見えないから描かない。見たままを描くのが絵だ、ということを理解しているからである。

もちろん知っていることを描くタイプの絵があってもいいし、文章があってもいいのだが、それは試験答案でありレポートであって「よく知ってて偉いね」以上のことではない。自分の目で見、自分の頭で考え、自分の心で感じたことを書いていれば、当然「自分の知っていること」と矛盾が出てくる。これはまさに宮崎駿監督や高畑勲監督のアニメの説得力と同じであって、「こんなものが出てくるはずがない」「こんなものが出てきたら困る」みたいなこともちゃんと描いているところがすごいのだと思う。

逆に言えばみんなが知っていること・・・「子どもの裸を絵に描くことはポリコレに反する」「タバコでもうもうとした部屋の中での作業を描くことは禁煙を推進する世の中には合わない」みたいなことがあってもそれをちゃんと描くところなのだと思う。

村上春樹さんの小説などでも最近はポリコレ的に批判されるようになってきてはいるが、彼の小説の面白さというところはむしろそういう「それ以上いけない」部分にあるようにも思う。

まあ彼らはどちらかと言えば書いているうちにそうなってしまった、みたいな感じではあるのだけど、それでも見たままの世界の中には「魔が宿っている」ということをちゃんと認めているのだと思う。そうした「魔」とどう付き合っていくのか、というのは古くて新しい人間の問題であって、保守思想の真髄というものもそのあたりにあるのだと思う。

チェスタトンだったか、「本当の狂人とは理性以外の全てのものを失ってしまった人間である」みたいな言葉があるが、今の物書きは基本的に理性的にその範囲内でものを書こうとし、発言しようとして、ある種の運動家しぐさが生じており、ある意味での「純粋な狂気」があるおたく的なものに対して「キモい」と排除しようとするのは、ある意味では当然の「本当の狂人」しぐさなんだろうなと思う。

とりあえずこれに関してはここまで。もっと考えるべきことが多いなこのテーマは。


「父 吉田茂」を読んで考えたこと、調べたことなど書こうと思ったのだが、これは次回に回したい。


今朝ネットを見ていて奈良美智さんの青森県立美術館での企画展についての記事を読み、とても面白かったのでそれについて考えたことなどを。

私は奈良さんの絵はとても好きだし展覧会も機会があれば行く。彼の「思想」というかそういうものには必ずしも賛成ではないのだけど、彼の作るものは見てみたいといつも思う。彼が作るものは「小さきものたち」への共感に溢れていて、それは宮崎駿アニメの精霊的なものたちとも通じるし、また村上春樹さんの書くところの「リトルピープル」的な何かみたいなものでもあると思うのだけど、それを最もよく具現化しているのが奈良さんの絵であり作品であり展示であると思う。

小さいものを小さいまま並べることがこんなに上手い人はいないと思う。大きく描いても小さい。奈良さんの描く性別不明の子供みたいな存在は単なる子供たちではなく、それぞれの人の中にいる「小さきものたち」であって、それは大きく描かれても小さいものとして見える。奈良さんの展覧会を見るとすうっと自分が浄化されていくように感じるのは、自分の中の「小さきものたち」が蠢き出すからだろうなと思う。

この展覧会では「小さな場所」というテーゼがいい。それはなんというか自分の中の何かが滞留する場所、人が集まってきて溜まり場的にそこに沈潜するけどいつか皆そこを離れていって、いつの間にか幻のように消えてしまう場所、というイメージがある。

現代ではそういう場所はネット空間なのかもしれないなと思う。ネット上の顔も知らないような人とのコミュニティ空間みたいなものは、生まれては消えていった。誰かが作るサイトの掲示板に書き込む人たちのなんと話の共同体みたいなものとか、「日記猿人」とか「テキスト庵」のような文章を読んだり書いたりするイメージ。今ではTwitterやインスタやnoteなどにその要素が残っている感じはしなくはないけど、より大規模なものだから(でなければ商業的に成功しない)コミュニティ要素は捨象されがちだなと思う。より大文字の言葉で語る強さみたいなものが、今のそういうものにおいては必要で、ただその中においても「小さきもの」みたいなものをどのように表出していけるか、みたいなことに賭けてる人たちもいる。全裸中年男性さんとかもそういう感じのことをやっておられるのだなと思っている。

記事を読みながらやはり奈良さんの展示はいいなと思う。学芸員の方のいう、「私はコンセプトやテーマは考えましたが、実際に形にしていったのは奈良さんです。鼻歌をうたいながら、ひょいひょいと額を手に取り、次から次へと作品を完璧にレイアウトしていく様は、魔法を見ているようでした。あのように空間の特性と展示の内容を高度に共鳴させるような展示は、私にはできません。最後は彼の人並外れた展示力に救われた展覧会でした。」言葉は本当によくわかる。

以前行った横浜美術館での個展でもそういうものを感じた。作品そのものよりも、それをどう展示するかのところにより奈良さんらしさが現れる。これは品川の原美術館の常設展示でもそうで、あそこにいくたびに奈良さんの展示室を見ていた(そういえば最近言ってないな)のだが、真似をしたいと思ってやってみたりはするのだけど全然真似できないのだよね。あの展示力が奈良さんの生み出すものの本質であり支えるものであるのではないかと思う。

企画展は明後日までで、今のところ青森に行くことは無理だが、また首都圏での展覧会があったら出かけてみたいと思う。自分の中の「小さきものたち」に出会うことは、多分私にとっても必要なことなのだと思う。

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