何者になりたいかと問われれば“変人”と答えたい

自分が何者になりたいかと問われれば、抽象的な答えにはなるが、“変人”になりたいと答える。

先日、某大型書店で知人のOさんと遭遇した。Oさんに会うのは久しぶり。数年前に仕事で知り合い、意気投合し、普段なら行かないライブやバーに連れていってくれた。オールディズ・ミュージックをはじめ自分の知らない世界の入口をつくってくれた人だ。そんなOさん、現在はある会社の代表を務めている。お互いに時間を持て余していたこともあり、コーヒー屋へ移動してゆっくりと話すことになった。

若いときに飽きるまでやんちゃをしたせいか、今は年下の僕に対しても驚きの腰の低さ。やんちゃの名残を漂わせつつも、落ち着いた態度でひとことひとこと、ゆっくりと話す。今までの経験から語られることばをひとつひとつ丁寧に紡いでいくと、一冊の本ができあがるようで。経験から導かれた深い教養が、本を読んで知っているつもりになった自分に刺さっていく。

そんなOさんを尊敬しつつも、僕はこの人のことを変わった人というか(やんちゃという意味ではなく)とんがった人だなあと思うことがしばしばある。知っている限りの過去の経歴を考えてみても、今していること、これから成そうとしていることを聞いていても、そして今の世に対する考えと意見がこれまたパンチのあるものであったりと。僕とはまったく違う生き方をしている変わり者。

そう思いながら話をしていると、ふいにOさんが「君って変わっているよね~。君の将来ってどうなっているの?」と口にされた。変わり者に“変わっている”と言われたことが少しおかしかった。「自分が君と同じ歳のころは、そんなこと考えていなかった。出会ったことのないタイプ。宮崎とかじゃあ浮いちゃうかもしれないけれど、そのままでいて欲しいな」そんな趣旨のことをOさんは語っていたと思う。「あれ、僕って変わってるんだ」と動揺しつつも実は少し嬉しくもあった。

思い返してみれば、自分が惹かれている人々はほとんど変わり者だった。Oさんにしてもそうだし、文学や映画に音楽のことを面倒くさいほどに思考して語りつくす文学サロンのメンバーしかり、天然の塩づくりに精を出すNさんしかり、某シェアハウスのオーナーしかり。ぱっと思いついた面々以外にも、僕が惹かれている“変人”はたくさんいる。国内外の有名人、故人など会ったことのない人も併せるとその数はもっと膨れ上がりそうだ。

その変わり者たちの思考はぶっとんでいて楽しいし、やることなすことに対してワクワクが止まらない。何かを期待してしまうし、僕もああなりたいと思ってしまう。そう思っているからこそ、Oさんに「変わっている」と言われたとき僕は嬉しかったんだ。

実は変わり者扱いされることに慣れてきたのは20代も後半になってからだ。それまでは抵抗というか少し苦いものを感じていた。なんだか周りからぽーんと抜け出してしまったようで、自分が周りと共有できるものがないようで、寂しさを感じることだってあった。なにせ、物心ついたころから人目を気にして神経張り巡らしていたから、自分を押し殺すことに慣れていたし浮いて出ることも嫌だった。そうやって個性を封印していようが、やっぱり出るところは出てしまうのが性格であり個性。20代後半になり、ある種のあきらめがついた。そして、「変わっている」部分を押し殺したがために人生だいぶ損をしてきたことに気づいた。

他人から変わり者で見られても、その本人としてはいたって普通に過ごしているに過ぎない。だったら自分の変わっているところを押し殺す必要などまったくないではないか。それに僕がぶっとんでいると思っている人々は、なんだか楽しそうに日々を過ごしている。なんなら人様がどう思おうが、僕は普通の人であるよりは変わり者であることを望む。

「社会運動はどうやって起こすか」というデレク・シヴァーズのプレゼンテーションがある。TEDで話題になったプレゼンテーションだが、彼によると、ある運動は一人の変わり者が周りと違うことをすることからはじまる。そして、嘲笑する周りの人々とは異なり、変わり者の価値を適正に判断して着いていくフォロワー(追随者)の存在によって運動は少しずつ拡大していく。何かをはじめる者と、彼をちゃんとおもしろがって付いていく者。その二つの存在と関係性が重要らしい。

それなら、僕は自分が惹かれている“変人”たちのフォロワーでいたいと同時に、自分自身も“変人”でいたいとなおさら強く思うのだ。

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