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海へ駆け出す

海めがけてまっすぐ駆け寄ってくる少年がいた。

なんの迷いもなく波のほうへ近づいていく。スマホを構え、狙いを定めたように写真を撮っていた。

数枚撮ったところで満足したのか、来た道をまっすぐ走り去っていった。

その時間にして3分程度。その潔さが見ていて気持ちよかった。少年のいたところを、いなくなったあとをずっと眺めていた。

なんだろう、あの熱量は。目の前に広がった海への関心か驚きなのか、感動そのままに突き動かされているようだった。

現に、彼が「感動」していたのかどうかはわからない。けれども、そこにはいっさいの打算的なものは感じられなかった。

映えるから、盛れるから、反応が良さそうだから、行ったことの証明としてピンを立てられるから、タグがつけられるから、こういうのみんな好きでしょ…云々カンヌン。

そんなものたちからはほど遠く、一生懸命「素敵で」「感動を強要」するような写真を撮ろうなんてこととは遠く離れた衝動、そしてパッション。

彼はちゃんと「自分の世界」を生きているような気がした。

この瞬間を残したい。ただ、それだけで動いてたような気がする。

そういうときに撮った写真っていつまでもそのときの情景や気持ちが残って、蘇っていくものだと思うんだ。

そういう写真って、ほかの人が見ても、不意に何かを呼び起こす力がある。

その光景のそばでは付近のカフェでテイクアウトしたドリンクを携え、一生懸命にスマホの角度調整をしている人たちがいた。

彼ら・彼女らは「いい写真」「納得のいく写真」を撮れただろうか。

打算性も合理性もない、そこに目的もない、誰からの評価も念頭にない、衝動や熱情に突き動かされる姿は見ていて清々しい。

なんの変哲もない、寄せては返す波のリズムが心地よかった。

カップに入ったカフェラテは、まだ温かかった。

(キャッチ写真はそのときの少年ではなく、お盆のときに宮崎へやってきた甥です。ふだん海なし県で暮らしている彼にとって海の景色は毎回特別なようです)


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