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声は現象

 「声を出す」という行為は考えてみれば不思議な現象だ。
 人間は呼吸を止めるという自分を死に近づける行為と引き換えに声を手に入れた、とどこかで聞いたことがある。しかも、声帯や舌を駆使してありとあらゆる音を出せるだけでなく、音の高低さえもコントロールすることができる。それだけでなく「言語」というものが「発明」され、その種類は国や人種の数だけあり、歴史上消えてしまったものを含めれば、もっとたくさんの「ことば」がこの世には存在していた。そう考えると「声を出す」という営みそのものがめちゃくちゃすごいことに思えてくる。
 そして、この声を出すことを用いて、自分と他者(人だけでなく動物や最近にいたってはAIまで)とコミュニケーションをとっているなんて。
 こんな単純な作業になんだ!? そんな無限に開けた可能性があるなんて。

 僕らはただ単に舌や声帯を使って声を出しているわけではない。実は身体全体の力を使って声を出している。かつて自分がひきこもりであったとき、それを強く意識した。何日も人とことばを交わさないで、しかも寝たきりでいると自然と声が出なくなっていく。というか、声の出し方が分からなくなるのだ。

 久しぶりに人と話しても自分がどういう風に、どこに力を入れて(ふだんは力を入れていたことさえ気付かない)声を出していたのか分からず勝手が悪い。そして、人に伝えたいことも伝えられない。吐き出したいことが吐き出せずにモヤモヤする。それがまたひきこもらせる要因になる。それを繰り返していた。
 そうした人と久しぶりに会話したあと、顔の表情筋や喉の筋肉、そして腕や腹など上半身の筋肉の痛みを感じた。声を出すって意外と生命を使っているんだなって、少し大げさに感じるようになった。

 人によって声の出し方はそれぞれだと思う。みんないつのまにか「声」を手に入れていたのだから、どうやって自己流を編み出したかなんて分かる人はいないだろう。
 
 そうそう、僕は今になっても自分の楽な声の出し方が分からないし探っている。なんだか声の出し方がとても窮屈なんだ。「苦しそうにしゃべるよね?」と10代〜20代にかけてよく言われたし、自分でもそうだなあって思ってしまう。実際苦しいし、それにことばを発するときに一言目がどもってしまう癖がまったく治らない。みんなどうやってスムーズに声を出しているんだろうと周りを見てて感心してしまっている。

 ちなみに、普通に話すときの声の出し方より、歌うときの声の出し方の方が実は楽だったりする。人によりけりだと思うが、僕の場合はそうだ。
 すごく不思議だ。だって使い慣れているのはふだん会話するときの声の出し方の方だ。なのにたまにしか使うことのない歌う声の出し方の方が楽に感じてしまうなんて。ただ、歌っているときの方が声が身体の中のドラム菅みたいな一つの管をきれいに通過していくイメージを感じることができ、スッキリする。

 声の出し方も気になるとこだけど、相手から発せられた声にはなぜ「肌触り」があるのか、それも気になってしまうこのごろだ。声は「音声」を超えて、もっと奥深さと奥ゆかしさがある。

※ちなみにタイトルですが、ジャック・デリダの『声と現象』とはまったく関連ありません。

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