先日、まれにある爽快な晴天の日に、おおよそ3週ぶりのランニングをした。いつも通りの海沿いのコース。距離にしてだいたい10キロの道のりを走った。4月に入り日中の気温が20度を超すことも増えてきた。晴れの日ともなれば、陽の影響も受け体感温度はそれ以上。まして運動をしていれば体温は余計に上がり、体力の消耗も早くなる。これまで冬物の身体を着こんでいたから、春物の身体に衣替えが間に合っておらず、スムーズに走ることができない。結局息があがって途中から歩きだしてしまった。

 ここのところ景色を楽しんで眺めたことがない。乱れた呼吸を整えつつトボトボと歩きながら思った。ランニングを続けているうちに走ることのできる距離と時間は伸びていったけれど、その分走ることに集中しすぎて周りの景色がただただ視界から流れていく。景色が変わるから、その都度の気分転換にもなり、走りが持続するとも言えなくもないが、純粋に楽しむように眺めることはなくなっていた。

 途中から走れなくなったのは悔しいけれど、散歩気分で周りの景色を楽しむことにした。なんてたって海沿いにいるのだから、周りには余計な建物はなく周囲が開けている。それに吹き抜ける風は少々冷たいけれども火照った身体には気持ちいい。

 海を見れば波は穏やかで、かたちが崩れて浜に溶け込んでいくときは音がほとんど聞こえない。視線を遠くにやれば薄い弧を描いた水平線が見えて、その上を船が泳ぐ。水平線の向こうから船が現れたと思いきや、別の船は姿を向こうへ消していく。水平線を眺め続けていると空と海との距離が曖昧になってくる。

 ある橋の上にくる。その橋はちょうど川と海をつなぐ境目に建てられている。潮が引いていることもあって、橋の下を覗けばそれまで隠れていた砂の地肌が晒されている。水流の跡なのか蛇のかたちをした模様が規則正しく連なっている。まるで砂が波打っているようにして。水たまりが陽に照らされて強烈な光をこちらへと反射させる。大きな水たまりでは、風が吹きつける度に微小な波が起こり、それが陽の光を受けて、そのときどきで表情を変えていく。幅の狭くなった川の水が海へ向かって動いている。幅が狭くなった分、激流になり周りの砂の壁を侵食していく。何度も砂の塊が落ちていくのが見えた。激流なくせして、海の水と川の水が合わさる地点では何事もなかったかのように静かに溶け合っていた。

 ビーチから渚を見ていた。渚、海と陸(砂浜)との境目。海でもあり陸でもある。そして、海でもなく陸でもない。何かと何かの境界でありながら曖昧な空間。決して何かと何かの「あいだ」とも言い切れないような曖昧な場所。というか、「あいだ」自体そういうものか。

 僕はこういう渚のような曖昧な空間と概念に惹かれる。何かの境目、界面。あっちとこっちのあいだにある線、空間、場所。自己と他者のあいだ。AとBが溶け合っていると同時に、そのAとBの違いも生み出している場所、もしくはAとBが出会う場所。そのよく分からなさがワクワクするしロマン溢れる。

 当然のようにしてスピッツのヒット曲である渚が頭を流れた。子どものころポッキーのCMで聴いて以来懐かしさも相まって好きな曲であるが、あれはボーカルの草野マサムネが生物学の先生から聴いた渚の話がもとになっていると言われている。「渚は二人の夢を混ぜ合わせる 揺れながら輝いて」ああ、マサムネさん上手いこと言ってるなあと思いながらビーチ、そして海を離れていった。

執筆活動の継続のためサポートのご協力をお願いいたします。いただいたサポートは日々の研究、クオリティの高い記事を執筆するための自己投資や環境づくりに大切に使わせていただきます。