大きな一輪の花にも、小さな花を集めて作る花束にも、価値がある
今朝、ミニバラの花束をいただきました。1つ1つの花は小さいけれど、小さいからこそ、これだけ色とりどりの花を1つの花束にまとめられるのですね。さわやかな香りも嬉しいです。
私にとって、一番心に残っているのは、高校卒業時にもらった大量の花束です。当時、高校の校舎を建て替えていたので、部活動のためのスペースが非常に限られていました。1つの教室を4つ5つの部活で共有することになり、簡単な仕切りは設けていたものの、クラブ間の心理的な壁がかなり薄くなった時期でもありました。
とはいえ人数が集まれば、軋轢が生まれることもあり、また家庭や勉強のことなど悩みを抱えている人もいました。私も、困っている人の話を聞くくらいはしたことがありました。話してくれた人が、どう考えても理不尽な目に遭っているときは、解決するために何か調べたり、他に相談に乗ってくれそうな大人を探したりしたこともありました。
ただ、私はそこまで面倒見のよい性格というわけではなく、大したことはできませんでした。また、相談してきた人に「それは、あなたのほうが変ではないか」とズバッと言いすぎてしまい、後悔したこともあります。
そんな私が高校を卒業するとき、私が所属していた部活の後輩たちだけでなく、同じ教室を共有していた他の部活の人までもが、花束を贈ってくれました。赤いバラとカスミソウの花束や、優しい色のカーネーション、青っぽいキンギョソウを、今もよく覚えています。
花束を全部持つと前が見えないほどになり、電車に乗るのも恥ずかしくて困るほどでした。なんとか最寄り駅に着き、恥ずかしいので自宅までの道を小走りに急いだのですが、そんな日に限って近所の人に会ってしまい、首を必死で伸ばして挨拶をしたものでした。
部活の後輩や隣のクラブの人たちが、私を気にかけて、花束を用意してくれたその気持ちが、すごく嬉しかったです。
そして、部活の仲間との過ごし方を振り返って、1つ思ったことがあります。それは、他の人から見たら些細なことと思える悩みでも、相談相手が誰もいないままに100日、200日と続いてしまうと、それは大きな悩みになる場合がある、ということです。
些細なことだからこそ、人に言えない。
このくらい我慢すればと思い、我慢が続いてしまう。
または、部活内で言ったら大事になってしまうと思い、言えない。
そのようなお話が多々ありました。
そういう時、部活の仲間のような濃い付き合いではないが、気軽に話せる誰かがいるということは、意味があるのかもしれません。そして、私のいた高校では「部屋を共有している他のクラブの人」という立ち位置に、意味があったのでしょう。
人間は、いずれは一人で悩みやもめ事を解決できる自立した生き方をするほうがいいのでしょう。ただ、それは「いずれ」でいい。自分の力や能力ではなんともならないことに出会ってしまったら、他の人の助けを躊躇なく借りていいと思います。小さな力を集めて、大きな1つの力にして、立ち向かっていく方法もあるからです。
小さな花だからこそ、集めれば美しい花束になる。そこには、大きな花で作る花束とは違う美しさがあります。大きな一輪の花にも、小さな花を集めて作る花束にも、価値があります。
高校時代を振り返っても、そして人から相談を受けることが増えた現在のことを考えても、もし私が誰かに伝えられた何かを1つ挙げなさいと言われたら
「自分だけでどうにもならない、もうダメだと思えるようなことがあったとしても、誰かの力や知恵を借りることで、何か道が拓けるかもしれない。だから、人に話してみたら?」
ということかもしれません。
今朝いただいた花束は、オフィスエリアに飾って毎日見られるようにします。花の盛りが過ぎたら薔薇風呂にしようかな。
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