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短編【ばあちゃんとポプリの匂いと糞坊主】小説

気付きはしないとでも思っているのだろう。音だけの読経が惰性で響いている。

それなりに広い十二畳の畳間だけど大人が十人も正座をして二列にならべば、かなり手狭になる。
その十二畳の仏間を糞坊主の読経が支配している。

私はその支配から逃れたくて読経の途中で席を立った。隣に座っていた姉の里佳子りかこが私の動きを察し眉をきつく顰め、いい加減にしなさいと無言で制した。私は気づかないフリをして襖の向こうの居間へ出ていった。

締め切った襖越しに、あの糞坊主の声が聞こえて来る。一本調子で刻む木魚の音。微妙にかすむ鉦の音。うっすらと漂う線香の気配が、この家全体を包んでいる。

私の知っている、おばあちゃんの家はこんな陰気な匂いではなかった。

季節折々の花に囲まれる、そんな家だった。ポプリ作りが大好きなおばあちゃんだった。おばあちゃんの周りは薔薇やハーブや金木犀の香りが舞っていた。

私は毎年、お盆の時期におばあちゃんの家に行くのが楽しみだった。おばあちゃんが作ったポプリを分けてもらうのが楽しみだった。おばあちゃんの家の匂いが大好きだった。

「ホント恥ずかしい。幾つと思ってんの?18でしょ?18は、もう大人だよ」

姉の里佳子りかこが私に詰め寄る。大声を出して怒鳴りたい気持ちを抑えている分、怒気が濃ゆい。

読経の途中に席を立って隣の部屋でスマホを見るという大人にあるまじき行為を責めているのだ。親戚の叔父さんや叔母さんは仏間に残って糞坊主の説教を聞いている。糞坊主が得意気に人生を説いている。

おばあちゃんのお葬式。私は姉と二人で富山県のおばあちゃんの家に来た。大工の父が仕事中に左足を骨折してしまい母はその看病をしなければならず両親は不在だった。

八十を過ぎても足腰が丈夫で痩せているわりに力が強くて庭の花木の世話をしているかと思えばいつの間にか台所で煮物を作っている。とにかく忙しなく、それでいて楽しげに働きまわっていて薄紫色のワンピースを好んで着るラベンダーのようなおばあちゃんだった。

そんなおばあちゃんに、あの糞坊主が言い寄っていたことを私は知っている。おばあちゃんが亡くなってしまう半年前。私は見た。おばあちゃんに抱きつくあの糞坊主を。半年前のお盆。明日には帰ってしまう日。その前日の夜。離れにあるトイレへ夏の羽虫の音を聞きながら向かう途中。おばあちゃんに抱きつく、あの糞坊主を私は見た。

おばあちゃんは泣いていた。

見てはいけないものを見てしまったと思った。誰にも言ってはいけない事だと私は思ってしまった。翌日、私たち家族を見送るおばあちゃんは、いつもと違って寂しげでラベンダーの様な朗らかさがなかった。

それが気にかかっていた。

そして年を越える前に、おばあちゃんは逝ってしまった。癌だった。私たち家族はだれも、そして近所の人たちも、だれ一人として知らなかった。

「本当に黙っていて、申し訳なかった。誰にも言うなと言われていたものだから」
「いえ。知ったところで、私たちにはどうにも。御住職さまが母の支えになってくれて。本当に、なんとお礼を申し上げれば」

叔母と糞坊主が葉が散りかかっている冬の金木犀の下で話していた。私は糞坊主がおばあちゃんにした卑劣な行為をぶち撒けてやろうと思った。

そう思って糞坊主に近づいた。

「いやいや、出家して縁を切ったとはいえ、実の姉ですから」

ざざっと強い風が吹いて少しだけ、少しだけ金木犀の匂いがした。


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