死ンデ、イル

少女は砂浜から、大きくうなりながら手招きをするその波へと入っていきました。強烈なスポットライトを一身に浴びて、まるでそこでしか発散できないものがあるかのように、ヘッドホンを付けて、踊り狂いながら、その波の中に消えました。その波の中で彼女は確かに、生きていました。光り輝いていました。


その悩んでいる少女は社会の中で、生きた体と死んだ存在を持っていました。もちろん心臓は動いていましたが、他人の中に彼女は住んでいなかったのです。いろんな大人が困った彼女を救おうと手を差し伸べました。学校が苦しかったら先生に相談してという体育教師、家で困ったら何でも言ってねというお姉さん、ここが苦しくなったらいつでも東京の家に来いという義兄さん。みんなが彼女のことを心配していました。

果たしてそれは本当の心配だったでしょうか。自分の役割を全うするため、不特定な相手に送った、乾いた言葉ではないでしょうか。教師として、姉として、義兄として、生徒に向けて、妹に向けて、義妹に向けて、それぞれがその社会的立場を全うするために吐いた自己欺瞞の言葉ではなかったのでしょうか。

この言葉たちが自分に向けられていないことに気づいた彼女は、もう一度生き返るために、海へ身を投げたのです。死んだ彼女の存在を取り返すために、体を殺すことで存在を取り戻そうとしました。

彼女が死んだことで、大人たちは初めて「彼女」を想いました。存在として彼女を認識しました。みんながその存在に対して言葉をかけました。もう彼女はいないのに。もう手遅れなのに。


私たちは一人一人がかならず、社会に存在する上での肩書を持っています。でもそれは、使い方によって相手を殺してしまう凶器だと捉える人はごく僅かでしょう。この戯曲を知らなかったら、私もこんな考えを持つことはありませんでした。「モダンスイマーズ」が描く結末は、21の私にとってあまりにも残酷でした。


きっと、社会が押し付ける関係に押し込まれて錯覚してしまわないように
「人として~」という言い回しがあるんだと思います。


いま持っている肩書に自分の言葉が奪われていないかどうか、もう一度だけ振り返ってみてほしいです。結婚はしないの?と聞いてくる親戚のおばさんよりももっと自然に、そして残酷に、相手の存在をあなたの中から無くしているかもしれないんです。肩書から出る乾いた言葉より、あなたから出た相手への血が通った言葉を使うことが、相手を肯定して、救う命綱になるんです。


血の通った言葉がつかえないのなら、私は社会なんていらないと思います。




読んでくれてありがとうございました。
またどこかで。



日々是口実

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