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短編小説「鏡の前の私”」

毎朝、鏡の前の私を綺麗にメイクするのが日課だ。

起床から外出まで、約二時間。
その短い時間では、入浴もメイクも大忙しだ。
だから、完璧な仕上がりを鏡で入念に確認してから、家を出る。

ある朝、口紅を塗ろうとした時だった。
鏡の中の私の動きが、ほんの少し遅れているような気がした。

でも、気のせいだ。そうに決まっている。

次の日、髪をとかしていると、鏡の中の私が一瞬だけ違う表情をしたように見えた。

なんだろう、この落ち着かない感じ。
たぶんストレスだ。最近仕事が忙しいし。


そして、そんな細かな違和感が何日も続いたある日だった。

私は鏡に映らなかった。

「え、なんで? どういうこと?」

驚いているはずの自分の表情さえ、目の前の鏡には映らない。
背後のキッチンだけが、背景として私を貫通して写し出されている。

私は透明? 消えてしまったの?

そんな考えが頭によぎり、全身をくまなく見回し触れてみるが、いつもの感覚と何ら変わりはない。

やはり原因は鏡だろう。

私は手で鏡に優しく触れた。
が、手は鏡表面で止まることなく、手首までが鏡に飲み込まれた。

「何!? これ…」

思わず叫んだ。
その時、

『私はあなた。本当のあなた。体をいただくわ』

どこからか、不気味な声が聞こえた。

その瞬間、私の体は鏡に飲まれた手からゆっくりと鏡の中に引きこまれた。
その力は強く、こちらが引っ張ろうとしてもどうにもならなかった。

「やめて! 離して!」

必死に抵抗するも、私の体はどんどん鏡の中へと吸い込まれていく。


気がつくと、私は暗く不気味な空間にいた。

目の前のモニターのような画面だけが、明るく辺りを照らしている。

信じたくない。けど、間違いない。
その画面の中に映っているのは、鏡から見た私の部屋だった。

そして、画面の端から"私"がやって来て、”私”もまたこちらを覗いていた。

『ずっと待っていたの。触れてくれてありがとう』

"私"は満足そうに微笑むと、化粧を始めた。

(待って! 戻して!)

口を開けて叫んでいるはずなのに、声が出ない、響かない。
"私"にも、その声は届いていないようだ。

完璧な化粧を終えた"私"は私に向かって手を振り、ウインクすると、颯爽と部屋を出て行った。

(お願い…出して…)

私はただ、冷たい鏡の表面に手をつき、呆然と立ち尽くすしかなかった。


もう何日が経過しただろうか。
画面の中の世界は、いつもと変わらず進んでいく。

鏡の前の”私”は今日も綺麗にメイクを進めている。

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