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短編小説「変わらぬ日常」

毎朝、満員電車に揺られる日々。
それが俺にとって、いつもと変わらない平凡な朝だった。


今日も会社に向かうため、ボーっとしながら到着を待っていた。

しかし、途中駅へと電車が減速しそうになった時、俺の日常は一変した。

『痴漢! この人です!』

ドアの前で窮屈そうに乗車していた女性が、大きく叫びながら俺を指さした。

なんだなんだ、と車内はざわついている。

確かに、綺麗な人だなと、多少色目は使ってしまったかもしれないが、俺はそんなことで手を出してしまうような人間じゃない。

「え? 何のことですか? 僕は何も...」

言葉を最後まで発する間もなく、周囲の乗客たちが動き出した。

『暴れるなよ、痴漢』
『一緒に行こうか』

複数人に手首や胴体を掴まれた俺は、為す術もなく取り押さえられた。

誰か俺を助けてくれる人は。俺の無実を証明してくれる人は。
期待を込めて周囲を見回すと、俺は既に複数のスマホに囲まれていた。

もう完全に悪者扱いだ。
俺はできる限りの抵抗として、黙って下を見続けた。


電車のドアが開くと、俺は強引に引きずり出された。
連行されるように駅員室に向かっている途中、他の乗客たちの冷ややかな視線が痛かった。

こうなったら、しっかり潔白を証明してやろうと、俺は息巻いていた。


『まぁ、落ち着いて。状況を説明してください』

駅員室に到着すると、年配の駅長らしき人物が、俺を痴漢呼ばわりした女性と話していた。

しばらくして、俺の番が回ってきた。

『じゃ、君の言い分も聞こうか』

駅長の口調は、もう俺がやったものと決めつけたような、やっつけた態度だった。

「俺は本当に何もしていません! ただ乗っていただけです! これは冤罪だ!」

俺は語気を強めて、そう言い放った。
しかし、必死に説明する俺に、駅長は疑わしげな目を向けた。

『はいはい、やった人も、結果的にやってなかった人でも、みんなそう言うんですよ。まぁでも、やっちゃう人って、みんな君みたいな感じだけどね』

その言葉に、俺の中で何かが切れそうになった。
この不当な扱い、 “正義”という名の下での根拠のない偏見。
しかし、怒りを爆発させれば事態は更に悪化するだけだと、かろうじて理性が警告してくれた。

もう何を言っても無駄だ。
俺は深呼吸をして、椅子に腰かけた。

頭の中で、今朝の平凡な日常が流れた。
変わらぬ日常がどれだけ幸せか、今はもう過去のことのように思ってしまう。

俺は警察が来るまでの間、完全な黙秘を貫いた。


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