見出し画像

未来は形から入る

 こんばんは🙏
 昨今のAI騒動に思うことがあります。
 結論から言うと、
「働いたら負け」と口でいっているうちが華で、
本当に働かなくなったら本当の負けになってしまうという、
未来は形から入るというお話です。
 つまり、ラッダイト運動が出てきた産業革命と較べるとき、現代の人工知能革命というのでしょうか、そこで引き起こされうる運動が起きているのでしょうか。
 ラッダイト運動は蒸気機関のため職人が仕事を奪われるというおそれからでた打ち壊し事件とも言えるのですが、その限りで見ると人工知能、AIに仕事を奪われるといって実際にサーバやクライアントを窓や上階から投げ落とす運動は起きているでしょうか。
 確かに以前、ウィンドウズがもてはやされた時期にそうした動画が流行った時期もありました。ウィンドウズがAIに置き換わっただけで本質は変わってないように見えます。しかも、その動画はラッダイト運動みたいに真面目になってやっているわけではなく、面白半分、本当に仕事を奪われるわけないだろうと高をくくっている節も見受けられます。
 しかし、こうやって楽観視をし続けることと「AIは怖いから先に矛を収めてしまおう、そうすれば仕事がなくなっても構いはしない。」ということは同じではないと私は思います。
 後者ですね、「働いたら負けだから先に辞めて働かないでおくよ」、そうすればAIに仕事をとられようが自分から仕事を放棄しようが結果は同じだと。持論ですが、私は働けることに人から認められるという価値を見いだせるからやりがいだと思って、障害者雇用ではありますが働いています。同じく障害持ちの仲間を見ると、苦しむ理由は病気の症状があるほかに、社会復帰したいよ、でもできないから苦しいんだという本音も見て取れるのです。
 よって、人は人(社会)に認められることにおいて自分の存在理由を労働の中に見いだすことができるのではないか。それをみすみす、AIに仕事をとられるという理由でその喜びすら放棄するとしたら、かなりもったいないことだと思うのです。障害を持っていても社会の一員で居たい、その気持ちが存在するのですから、健常者の皆さんもその喜びが空気の如く当然にあるものではない場合もあるよ、とAI騒動を機に労働について今一度考えて欲しいのです。
 仕事をとられることと仕事を自ら放棄する事の違いは、「仕事」を「自由」と言い換えるとわかりやすいでしょう。異論は重々承知ですが「働いたら負け」はフロムの『自由からの逃走』にある、機械文明や全体主義からの逃走以前に自ら自由をかなぐり捨てる営為を思い起こさせます。それらに顔を背けずに抵抗して闘った先人達もいたから、今の自由の陣営と暮らしがあることにも思いいたしたいと思います。

2024/02/09 ここまで

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?