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私の大事なもの;大事だったけど実現できなかったもの

こちらからの引用・加筆です。

同級会の呪縛

 「同級会」とは言うが「同窓会」と違い、たまたま居合わせた場所と時期が一緒だったと言うだけで、価値観まで共有できても平均化できるわけではない。どうも私はその辺りをはき違えていたらしい。

 何もかも一緒か超えてなければいけない、と。
たとえそれが、誤っていると分かっていても。

 37年ぶりに合わせた顔。私が障害者雇用で、もはや正規雇用で無く、しかも未婚であると言うことを除けば、何もいうことはなかった。

 こうして並べてみると、何ら一寸も悔いはない、恥じることはないじゃないか、恥じたら失礼だ、という意見も聞こえてきそうだ。

 スタートラインが同じならゴールも同等でなければならない、いや、それは私の思い込みであるといわねばならない。

 こうしてみてみると、この一年という節目の中で、私にとって本当に大事なものとは何だったのか。この種の思い込みは私ひとりのものではない。

昭和戦後気質と・・・

 後輩達が広い地域から集まってきて成果を上げる。それさえ気に食わず、みんな一緒で劣ったもので肩を並べれば良い、それが昭和気質かもしれない。

 平成世代はむしろドライである。その後のミレニアル世代、Z世代に至っては婚期やパートナーのかたちに均一性を求めているようには見えない。

 あるとき、当時のツイッターでアンケートをとったことがある。
 「あなたにとって『彼』とはなんですか?」として選択肢を恋人・婚約者・その他とした。意外なことに「その他」が大多数を占めた。つまり、多様なのである。

 ひるがえり、私の世代、昭和に限ればどうだろう。成績や職業がどうであれ家庭を持っていればいいという、じつにステロタイプに縛られた世代なのだった。

 私自身その呪縛から自由ではない。同窓会の二次会で野郎ばかり四人集まって飲んだ。未婚者は私ひとり。老後大変だろうからとこじつけられ住所と電話番号を聞いてきた同級生があとで同年代の未婚者を紹介するという。

 あとで考えてみたのだが、大好きだった幼なじみが家庭に入って久しかったことを知りつつ、そういう「代償行為」を考えていたのだろうか?

結婚教の呪縛

 私は人の親切をそれ以来、信じられなくなった。特に、自分より古い世代の親切についてはそうである。おそらく、「結婚教」の呪縛から逃れられず病膏肓に入るとはこのことだろう。

 失恋が分かった手紙以来、むしろ恨み骨髄に徹すといった方が良かった。

 だが、原因が自分の思い込みにあることが分かった以上、誰も恨んではならないと思う。こんなに物わかりが良くていいのか。分析的に考えるとはこういうことである。

 恨んでも憎んでもはじまらない。あらたまらない。ありのままを。付け加えるなら、老後の世話を頼むどころか子なしで共倒れになりかねない。

 障害を持っていて老後のことなら訪問看護なり訪問介護なりに頼めば良い。かたちだけにこだわるとそういう本末転倒が待っている。

 かっこつけなら若いうちであるのが私の世代までである。

もう同級会には行けない

 私もそういうことなら「同世代」と関わりを金輪際、持ちたくないから、「同窓会」に出ても「同級会」には出ない。指輪のついた手を見せびらかす前後の年の人達まで同じ括りだ。

 今年もあとわずか。みなさまよいお年をお迎えください。

2023/12/30 引用元初出
2023/12/31 転載・加筆

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