32 さよなら、僕の平和な日々よ
大林さんが歩き出したので、僕もそれに続いて歩く。廃工場地帯の廃れた陰鬱とした空気が、肌にねっとりと絡みつくような気がした。
しばらく行くと大林さんは立ち止まり、僕の方を見ながら建物を指さした。ここなのだろう。
ガラスというガラスが割れている。どこかの暇な悪ガキどもが、いい気になって憂さ晴らしでもしたのだろう。中は当然真っ暗だ。
大林さんが足もとを指さした。一瞬ここにいろっていうこと? と思ったが、どうやらガラスが落ちているので、足音を立てるなということらしい。
気を取り直して足音に気をつけながら歩き出す。
声……がする?
僕が感じたのは幻聴ではなさそうだ。大林さんが立ち止まり、僕に待てと手で制止した。
よく聞こえないけど、一人のような気がする。会話としては、相手の声が聞こえない。
電話だろうか?
でも何を言っているのかまったくわからない。
再びついて来いというように、大林さんが合図をした。ゆっくりと慎重に歩く。大分声が近くなった。これなら聞こえるかも……
「?」
聞こえる。確かに何かを話している。聞き取れているが、何語だ? 少なくとも英語じゃないような……
「……!」
わかった。といっも、相変わらず内容の程は不明だが、この言語は最近テレビでよく聞く、『日本に近くて遠い国』と揶揄されているK国の言葉だ!
うわぁ……
最近何かとK国のことはニュースになっている。日本から一番近い位置にありながら、日本とは外交がない国だ。拉致・核開発、ミサイル発射、国際会議のボイコットなど、日本以外の国からも非難を浴び、その動向が注目されている……
こりゃ、すごいことになったよ……
僕が青ざめていることを知っているのか、それても知っていて無視しているのか、大林さんは何かを考えているようだ。だがそれも長くは続かず、再び前進する。だがその結果、声からは遠ざかった。入口を捜しているのだろう。
声が完全に聞き取れない位置まで移動すると、入口らしきところにたどり着いた。中に入る前に大林さんは僕に手招きをした。近づくと、大林さんは僕の耳元でささやいた。
「中に入ったら二手に分かれるわ。二百数えたら犯人の注意を引くような事をするから、それまでに稲元君の安全を確認すること。さらに三十数えたら行動に移って。二十秒以内に連れ出せそうにない場合は、逃げること。いい?」
「わかった」
ここでああだこうだと言い合う時間はない。僕は大林さんと共に工場内へと侵入した。
大林さんが手で自分の行き先を指し示し、続いて僕にも向こうへ行けと合図する。僕は頷いて、身を低くして静かに進んだ。
声が聞こえる……
今度は日本語だ。稲元に何かを言っているんだろうか?
どこだ、稲元……
やがて人影と思われるものが目に映った。一度止まってよく目を凝らす。
目は闇に慣れ始めていた。立っている人物が一名、それからうずくまっている人物が一名。うずくまっているのが稲元のようだ。
よし、稲元は確認できた。だがこのままでは稲元に近づけない。何か武器になるようなものはないだろうか……?
ポケットをまさぐると、唐辛子スプレーがあった。
これはなぁ……超接近戦でしか使えないし。
気を取り直して前進を再開する。ぎりぎりまで近づかないと。
よし……ここまでが限度かな?
稲元との距離はおよそ五メートル。僕は積み上げられた機械の山に身を隠す。稲元は不安そうに男を見上げている。それから体育座りをしている。よかった……両足はしばられていないようだ。ただ、両腕は後ろに回しているので、腕だけはしばられているのかもしれない。
「……えな」
犯人は一人。何かを呟いているようだ。
さて、どうする?
まず……稲元に僕の存在を知らせる。あぁ……なんて言い訳するか考えていないよ。しょうがない、美佐子さんのことだけ伏せて話そう。
それよりも問題は現状だ。稲元に僕の存在を犯人に知らせないように知らせるには、どうしたらいいんだろう?
うーん……
「こうなったのもあんたのじいさんのせいだからな。恨むなら、じいさん恨みな」
なんて言いぐさだ。元を正せばあんたたちのせいだろうに。
稲元は何も言う気になれないのか、それとも極度の不安のせいで何も言えないのか、沈黙を通している。
僕はふと足もとを見た。錆びたネジが転がっている。とても小さい……
僕はそれを拾いあげた。これを稲元にぶつけたら気付くだろうか?
だが落ちれば音がする。工場内はしんとしている。些細な音でも耳に届くだろう。
そろそろ二百に近づく。大林さんが何らかのリアクションを取る頃だ。それに合わせて投げつけたらどうだろうか?
それしか……ないよな。
稲元はこちらに気付くだろうか? 気付いてもらわなくては困るんだけど。
僕はゆっくりと深呼吸をした。
余計なことは考えるな。今は稲元を無事に連れ出すことだけを考えよう。
「!」
ガタンと大きな物音がした。
今だ!
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