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16 僕の平和が遠ざかる

 キッチンで珈琲の用意をしていると、田崎さんがやってきた。手には長い紙袋と、小さな紙袋だ。
「こっちは君に」
 といって田崎さんは長い方を僕にくれた。このずしりとした手ごたえ。ピンときた僕はにやりと笑った。
「さっすが。座っていてください。お礼をかねてとびきりおいしい珈琲いれますから」
 田崎さんがくれたものは、ウイスキーだ。もちろん法律的に僕は未成年。僕は煙草を吸わないが、酒は美佐子さんに付き合わされているうちに、すっかり味をしめてしまった。
 美佐子さんに言わせると、『酒も煙草も自分に責任が取れるなら、子供でもやればいいのよ』という革新的な教育方針を打ち出している。田崎さんも警察官のくせに、美佐子さんを落とすために必死らしく、僕への点数稼ぎにも抜かりはない。
「美佐子さんはまだ寝ていると思いますよ。そろそろ起きると思うけど。僕、ちょっとシャワー浴びてくるので、適当にしていてください」
 珈琲を用意しながら、僕はそう言ってダイニングのテレビに近づいた。リモコンでスイッチを入れると、朝のニュース番組が流れた。テレビでは殺人事件のニュースが入っていた。テレビの中の出来事が、ある日突然当事者になる。僕も今度のことは人事ではいられないのだ。
「ねぇ、良一君。さっきのあれ、複雑な事情とかなんとか言っていたけど、本当のところどうなんだい? あれはこの当たりの人間じゃないだろう? どう見ても外国人だ。しかもサウス、南部のなまりが混じった発音の英語だった。動きが素人とは少し違う。あれは手慣れていると思う。なんでそんなやつらが、美佐子さんの回りにいるんだい?」
 さすが、国際捜査課の刑事。読みがするどい。発音だけでどのあたりの出身か、大まかに当たりまでつけているよ。
 しかし美佐子さんがセットフリーターで、犯罪者を逃がしたことがある(とは断言してなかったけど)うえに、偽造屋とも懇意にしているなんて知られたら……いくら田崎さんでもかばいきれないだろう。
 しかしジューンのことだけを話すにも、うまいいいわけが見つからない。
「そのぉ……」
 うぅ、困ったぞ。僕は美佐子さんとは親子のくせに、相手を言い負かせる程口が回らない。けれど正直に話すことだってできないし。
「実は……」
 なんて言えばいいんだ?
 僕が困惑の真っ最中、とんとんと階段を降りる音が。
 うわぁ! どっちだ! ジューンならジューンでまた説明しなきゃならないし、美佐子さんだとしても困るぞ!
「なぁに? 朝からうるさいわね」
 眠くて気だるい雰囲気全開のパジャマ姿の美佐子さんだった。すると田崎さんはぱっと顔を輝かせ、僕を押し退けて美佐子さんの前へといった。
「おはよう、美佐子さん! シンガポールから飛んできたよ」
 先ほどまでの鋭い刑事ぶりが消え失せて、『恋の奴隷』モードに入った田崎さんは、美佐子さんへのプレゼントをご 献上賜ったけんじょうたまわった。美佐子さんは薄く微笑み、それを手にするとさっそく中身を取り出した。
 我が母親ながら、悪女の貫禄。
「素敵……」
 それは金のペンダントだった。トップはもちろん本物の金に、もちろん本物のダイヤモンドをブリリアンカットではなく、リーフカットしたものだった。
 うわっ……高そう……
 美佐子さんはそれを田崎さんに押しやった。おや? めずらしく謙虚。
「つけて」
 そう思ったのもつかの間、田崎さんを使用人扱い。それを喜々としてやるんだもんな、田崎さんも。男のプライドというものは、どこへいったのやら。
 金色に染めた髪をかきあげた美佐子さんの背後に回って、田崎さんはいそいそとペンダントをつけてあげる。うーん、こんな人が父親になるのかぁ……もう少し吟味したほうがよさそう。
「どう? 似合う?」
「もちろん似合っているよ。美佐子さんにはなんでもよく似合う。髪を染めたんだね。きれいだよ。ペンダントもよく映えるし」
 歯が浮くセリフを笑顔で言えるんだから、田崎さんもただ者ではない。海外生活が長いので、そういう外人めいたセリフや仕種が身に付いているのだろうか? 僕には死んでもできそうにもないな。
「うふふ、うれしいわ。良一なんか第一声が『その頭は?』よ。ひどいと思わない?」
「良一君、君は美佐子さんと暮らしているのにわかっていないな。美しい女性を美しいと褒めても罰はあたらないよ」
 なぜ僕が非難される? そもそもおかしいじゃないか。三十代後半になろうとしている母親が、突然金髪になっていたら、驚くに決まっているじゃないか! いくら外見が若作りだって、スタイルがよくたって、ご近所の目もあるんだぞ。
 もっとも、ご近所ならあの美佐子さんだからと、納得しそうだけど。
「珈琲いれるね、二人とも」
 もちろん僕は美佐子さん相手に、歯の浮くセリフを言うわけでもなく、早々と戦線離脱をすることにした。ちょうどお湯も沸いたので、豆をミルですりはじめる。ちなみに力任せにすると、静電気がたち風味が損なわれる。そしてゆっくりすぎると豆が空気中の酸素と結合して酸化し、これまた風味が落ちてしまう。だから早すぎず、遅すぎない程度に加減してやらなくてはならない。
 こんなことを知っている僕はというと、もちろん珈琲のいれ方に関する知識を、徹底的に美佐子さんに仕込まれたのだ。珈琲にお湯を注いで落とす早さやタイミングでさえ、いちいち美佐子さんはうるさい。おかげで僕の舌も肥えてしまって、インスタントをまずいと判断できるようになってしまった。もっとも、僕はまずくても妥協できるが、美佐子さんはもちろん妥協はしてくれない。

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