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15 僕の平和が遠ざかる

 美佐子さんのリクエストの『ル・ノワール』のクロワッサンを中心に、バターロールとバターデニッシュを買い込んだ。美佐子さんは朝食をそんなにしっかりとは食べないほうだが、僕はしっかり食べるほうだし、ジューンもどのくらい食べるのかわからないので、いつもよりも多目に購入した。
 サラダは昨日買い物をしていないので、コンビニでパックに入ったものを三つ買った。牛乳が切れていたので、ついでに牛乳も。
 さすがにこの時間帯ともなると、遠距離出勤の人たちも目立ちはじめる。今日から三日は学校を休むので、僕も急ぐことはないが、いつもなら慌てているかもしれない。
 走って家の前につく直前のことだった。もうすぐ自宅だ。アンティークショップの店のシャッターが、下りているのも見える位置にいるのだが。
 前方に怪しい人影。ありゃ、なんだ?
 お向かいさんの家にの塀と電信柱の影に隠れて、僕の家を見張っているという風情だ。
 そう、いかにもごつい外国人という感じの人。
「……マジ?」
 相手は二人に増えていた。これは実にまずいのでは? テロリストとかなんとか言ってなかったっけ?
 あんなの相手に立ち回りなんて無理だよぉ!
 しかし自宅に戻らないわけにもいかないし、何より僕はジューンを守らないとならないわけだ。
 どうする?
 僕が出ていって戦ったとしても、僕がボコボコにされればジューンは容易く連れ去られることだろう。ましてやまだ起きていないのなら、更に無防備なはずだ。美佐子さんだって何かされるかもしれない。
 どうする!
 僕は近所の家に駆け込むことにした。そこから警察に電話をして、不審者がいるとタレコミをして来てもらうと思ったのだ。
 ところがである!
 家の前に一台の車が滑り込んできて、我が物顔で店の前に停まった。黒のフェラーリ。
「まさか……」
 僕は近所の家へ向かっていた足を引き返し、その車を見た。見覚えがある車種だった。そして降りてきた人物を見て勝機を見出した。
「 田崎さん!」
 田崎さんが僕に気付いてこちらを見た。同時に男たちが田崎さんに飛びかかるが、ひょいと避けて男の頭に手をかけると、フェラーリに男の顔を叩きつけた。
 もったいない! じゃ、なくてナイス!
 僕はパンの入った袋を地面に置いて走り出した。田崎さんに殴りかかろうとしていた男の延髄に、踵落としを決める。もう一人の男の顔に田崎さんは肘撃ちを決めて、フェラーリのフロントに腕を取って押しつけていた。僕が相手をした男は昏倒せず、田崎さんに体当たりをして弾き飛ばす。よろけた田崎さんをそのままに、男は何かを英語で叫んで仲間を連れて走り去った。田崎さんは一瞬追いかけようとして、それから僕がいることを思い出し、結局は追いかけなかった。
「一体どういう事だい、良一君?」
 襟を正しながら、田崎さんは僕を見た。僕ははっきりした事も言えず、困ったように肩をすくめた。
「そういう田崎さんこそ、なんでこんな朝早く? いつ日本に?」
「さっきさ。昨日の夕方美佐子さんに電話貰ってね。シンガポールから来たばかりだよ」
「なんだって?」
 田崎さんの行動力もすごいけど、美佐子さんが呼び寄せたとはどういうことだ?
 田崎さんこと 田崎守さんは、警視庁刑事部国際捜査課に所属する警部だ。2種準キャリアで、本人は出世にはそんなに興味はないらしい。
 しかし田崎一族と 揶揄されるほど、一族は派手に展開している。経済界にも顔が広いが、現在の警視庁長官をはじめとして、警察界に絶大なコネクションがある。田崎さんも立派な御曹司だ。
 それからとりわけ美青年というわけじゃないが、独身だからなのか海外生活が長いからか、服装などはオシャレな人だ。さすがに家柄がいいからか、身のこなしは洗練されている。また仕事が仕事だからか恰幅もよく、先ほどのように修羅場に手慣れている。
 なんの因果で美佐子さんなんかと知り合ったのかは聞いていないが、美佐子さんに惚れてしまったらしく、こんなにでかいコブ付きの美佐子さんに、何度もプロポーズしている。もちろん田崎さんのほうが美佐子さんより年下だが、それでも構わないらしい。
 美佐子さんに懐柔するべく、僕にもよくしてくれる。僕としてはこの田崎さんと美佐子さんが、再婚でもしてくれればなぁと目論んでいるので、全面的に田崎さんには協力しているのだが。
「仕事は?」
「そんなもの有給を取ったよ。僕には犯罪者より美佐子さんのほうが大切だからね」
 これがよくわからないところだ。恋は盲目を地でいっている。そんなにほいほいと休める仕事であるはずがないのに、簡単に休むどころか、シンガポールから飛んでくるんだからすさまじい。僕にはわからない感性の持ち主だ。
「それで良一君、あのゴロツキは何? 美佐子さんが狙われているのかい?」
 もしもそうだと言ったら、きっと田崎さんなら二十四時間体制で守るか、シンガポールにでも連れていくことだろう。いっそ、そうして欲しい気もするが、うむ、ジューンがいればそうはいかないだろうな。
「ちょっと複雑な事情があって。入ってください。珈琲でもいれますから」
「あぁ、ありがとう。車はこのままでいいかな?」
 家の前にでかでかとフェラーリを置かれるのは、非常に迷惑だが、そこしか場所もないし、当分店は閉めるのだろうから問題はない。
 僕は道端に置いてしまった袋に入ったままのパンを拾いあげて、田崎さんを自宅へと招いた。だが田崎さんは途中で引き返して、車に戻った。おみやげがあるそうだ。律儀だね、この人はホント。

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