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14 僕の平和が遠ざかる

 何、偽造屋って。そんな物騒なものが、軽々しく存在しないでよ。ここをどこだと思っているの? 日本だよ、日本! 平和で安全な日本!
「やれるわね?」
 コットンをゴミ箱に捨てて、僕を見た美佐子さんの瞳は、いつにもなく真剣で力強い。
 普段からこれだけ真面目だったらなぁ。
「やれるか、やれないかじゃなくて、やるんだろ?」
 僕がため息交じりに言うと、美佐子さんは満足そうに頷いた。だがなんだか釈然としない気が……
 今まで十七年も秘密にしていたのに、なぜ今さらのように、僕に手伝わせることにしたのだろうか? 僕がジューンに先に会ってしまったから? 美佐子さんが関わらせまいとするのなら、得意の口先三寸で僕をうまくあしらっただろう。悔しいことに、よくやられるんだ、これがまた。
 そしてはっとした。
「まさかだけど……いずれは僕を巻き込むつもりだった……なんて……」
 あ、嫌な予感。自分で言っていて寒気がした。『男は強くなくっちゃ!』と言って、僕に空手と合気道を習わせたのは美佐子さんだ。最も、空手は高校に上がる頃にはやめて、今は合気道だけを習っているわけなのだが、もしもこの格闘技を習わせた理由が、いずれは仕事の片棒を担がせようとしていたのなら…………
 すると美佐子さんは極上の笑顔を浮かべた。それ以上の返事はない。
 ううう! 怖い、確かめるのが!
「他に聞きたいことは?」
 今の美佐子さんは、聞けばなんでも答えてくれそうだ。そして聞いた僕は、きっと当事者となってしまうのだろう。
 そんなの嫌だ!
「そうだね……朝食のリクエストは?」
 我ながら場の空気を読めない質問だと自覚している。でも聞きたくなかったんだよ、日常が壊れて行く答えを耳にするのが!
 美佐子さんは少し僕を見て、そのとぼけた質問が僕の答えだと理解したのか、からかったりはしなかった。
「ル・ノワールのクロワッサンにサラダと熱い珈琲」
「了解」
 僕は恐怖のあまり間の抜けたことを聞き、すごすごと出ていくことにした。椅子から立ち上がり、部屋を出る。その時一度振り返るが、美佐子さんはすでに僕への興味を失ったのか、鏡の向こうの自分の肌のチェックに余念がない。
 僕は美佐子さんの部屋を出ると、扉にもたれて溜め息をついた。
 どうにも今日という日は厄日としか思えない。
「うー……」
 僕の今まではなんだったんだ?
 僕は日常が崩壊する音を聞いた気がした。


 僕の朝は早い。
 まだ薄闇の中、僕はトレーニングウェアを来て外へと出た。美佐子さんもジューンもまだ当然熟睡している。
 なぜそんな時間に起きるのかというと、これにはもちろん理由がある。
 僕は合気道を習っているといったが、その一貫の自主トレなのだ。道場には週に一度しか顔を出さないので、こうした自主トレは欠かせない。中学三年の頃、受験の憂さはらしにやってみたことなのだが、これが案外楽しいのだ。凜と冷えた空気、まるで無人になってしまったかのような静かな街の中を走り、街から少し離れた高台の公園へ行く。そこでストレッチや型の練習をしていると、朝日が昇ってくる。これがまたきれいで、受験ストレスで鬱屈のたまっていた僕は、すとんと心が軽くなった。そう、あの頃の僕は机にかじりつくことよりも、外へ出ることが必要だっただけなのだ。
 それ以来、僕は朝の自主トレをしている。
 だが無人と錯覚しそうな街でも、新聞配達の人やタクシーの乗務員、それに二十四時間営業のコンビニなど、他にも起きている人間はいて、結局街も人も二十四時間動いているんだなぁと思ってしまう。
「はっ……はっ……」
 街から高台の公園へと向かう。この坂を走ってのぼるのが結構辛い。最初の頃はずっと走り切ることができなくて、途中で歩いていたりもしたが、今では最後まで走り切れる。
「はぁぁぁぁ!」
 けれどやっぱり息も上がるし、こたえることはこたえる。僕は膝に両手をついて、前屈みになった。何度か深呼吸をして呼吸を整えると、簡単なストレッチを始める。
 体を動かすことは嫌いではない。部活をまともにしたことがないが、体育は好きだし、運動神経そのものは人よりいいかもしれない。それも幼いころからしていた空手と合気道の賜物かもしれないが、習わせた発端がもしもいつか、美佐子さんが自分の手足として使うためになのだとしたら……素直には喜べないけど。
 十分程のストレッチの後、僕は型の練習に入った。合気道の型は、主に当て身技、関節技が主なもので、相手の攻撃を受けていなすのが特徴だ。昨日僕がした攻撃は、それからは外れている。あのとき僕の後ろにはジューンがいたので、投げ技に持っていくとジューンの方向へ、投げてしまうことになっていたし、関節技に持っていくにも相手のナイフを落とすことが先だった。それに今だからああだこうだと言えるが、あのときは焦っていたし無我夢中だった。
「はっ!」
 あまり長居はできない。美佐子さんが朝食を用意してくれるならいざしらず、僕が用意しないとならないうえに、今はジューンがいた。一人分増えたのだから、その分もしなくちゃならない。
「ここまでに……するか」
 僕は型の練習もそこそこにやめた。それからまた今度は坂をくだりながら走り、よく行くパン屋へと向かう。
 店の名前はル・ノワール。美佐子さんがお気に入りのパン屋だが、実は僕も好きである。
 朝早くからやってくれていて、七時には営業してくれているが、僕はもう少し早く行っている。店の主人が僕のことを覚えていてくれる人で、よく買いに行くので営業前の焼き立てを売ってくれるのだ。
 所帯じみている自分に、少し悲しくなる。
 あぁ、僕ってなんて不条理な星回りに生まれたんだろう。大望も野心もない平凡な高校生活を送れればそれでいいんだけどなぁ……
 僕は少し憂鬱になりながら、それを吹き飛ばすかのように走り出した。

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