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04 さよなら、僕の平和な日々よ

「馬鹿、違うわよ。そっちじゃないわ」
 美佐子さんの冷ややかな視線を受けて、僕の頬は引きつった。これ以上ない程引きつったさ!
「……」
 やはりな……僕は男性になんとか会釈をすると、美佐子さんの腕をつかんで奥へと引っ張った。
「ちょっ、何するのよ!」
 美佐子さんは僕の腕を振り払った。僕の頬は限界ギリギリまで引きつり、苦虫をガムのように噛み砕いたかのような、危険な笑顔を浮かべていた。
「美佐子さん? 僕、ちゃんと言ったよね? アンティーク・ショップの仕事は手伝うよって? でもセットフリーターの仕事は絶対お断わり!」
 どこの世界に、実の息子に犯罪に抵触する可能性の高い、そんな裏の仕事に巻き込む親がいるんだ!
 いや、目の前にいるけどさ!
「何よ? あんたあたしに養われている身で、文句言うつもり?」
 でたな、女王様発言。えぇい、そんな脅しに屈するもんか。
「なら、僕にも考えあるよ? 外でバイトしていいわけ?」
 即座にそう切り返すと、美佐子さんはギロリと睨んできた。
「ひどい……あたしはどこであんたの教育を間違えたのかしら?」
 頬に手を当てて、よよと、泣き崩れたフリをする。僕は乾ききった笑みを浮かべた。
「最初から全部じゃない?」
 と言うと、驚くような早さの鉄拳が僕の頭に飛んできた。
「痛い!」
 クリティカル・ヒット!
 頭を抱えて唸る僕を無視して、美佐子さんの十八番が始まる。
「あぁ、良さんごめんね……」
 もういい加減聞き飽きた。僕は溜め息をついた。
「その手はそろそろやめようよ? 写真一枚すら見せてくれない相手のことを、言われたって、僕には全然効果ないんだからさぁ?」
 そう僕は父親の存在をまったく知らない。写真一枚すら見たこともないし、どういう人間だったのかも聞いたことはない。例えば、どんな出会いで知り合ったのか。どんな人だったのか。何年結婚生活を送ったのか、僕は知らない。僕が生まれる前に死亡しているらしいということから、恐らくは美佐子さんは未亡人ではなく、案外未婚の母なのかもしれないけれど。
「とにかく、手伝いなさい」
 はっきりとした命令に、僕はきっぱりと拒否した。
「やだね。僕は普通の高校生活送るの。CIAだとかマフィアだとかは金輪際関わり合いにはならないからね」
 そう僕は前回本物のCIA相手に逃げ回り戦ったのだ。おかげで波乱万丈で危険に満ちた体験を、嫌という程味わった挙句に、後頭部を負傷して入院までした。
 あんな経験はたくさんだ。
「良一……お願い?」
 ところが美佐子さんは何を思ったのか、僕の手を握りしめると、うるうるとした瞳で見上げてきた。僕は反射的にその手を払った。
「実の息子相手にそういう手が通用すると思っているの? 気色悪い」
 すると微かに、チッと美佐子さんは舌打ちをした。うぅ……我が母親ながら、この人は悪魔だな。自分の我を通すためなら、何でもするんだね。
「わかったわよ、今回だけよ、今回だけ。ね?」
 両手を合わせて、僕の機嫌を伺う。その手には乗るものか。
「だーめ。一度でもその今回だけっていう言葉に乗れば、何度でも今回だけっていうのを出して来るでしょ、美佐子さんは?」
 ここはやはりきっぱり言っておかなくちゃならない。僕は平和に日常を過ごすのだから。
「お願いよ。ボーナス出すから」
 命令が通じず、懐柔もあしらわれ、泣き落としも空回りした挙句、とうとう買収にきたか。これが母親のすることだろうか?
「だめ」
 毅然とした態度を見せなくては、付け上がるだけだ。なんと言われたって、僕は僕の意思を貫かなくては。
「五万」
「えっ?」
 しかし強固なはずの意志は、その金額を耳にして揺れ動く。
 美佐子さんは僕が反応を示したのをいいことに、悪魔の誘惑とも思える魅惑的な微笑みを浮かべた。だって、高校生にとっておこずかい以外の五万円なんて大金だよ? ちなみに僕は店を手伝う報酬として月に三万円もらっていて、それがおこづかいとなっている。
 だけどドレッシングやトイレットペーパーなど、妙に細かい日用品で消費することもあり、三万円の小遣いはそう大金でもない。
「五万円出す。前払いで」
 顔の前で手の平を広げて、美佐子さんは勝ち誇ったように笑った。喉から手が出る程に欲しい。しかし、
 くっ! 屈するもんかぁ!
 と、自分に気合を入れる。
「わっ……悪いけど、断る」
 危ない。もう少しで陥落させられるところだった。金欠だったら、本気で屈するところだった。今月の前半は入院していたおかげで、差ほどお小遣いを消費していない。そのため、そこまで資金に困ってはいなかった。
 まったく、本当に自分の思い通りにするためになら、何でもするんだからこの人は。
「本当にこれっきりよ」
「嫌だね」
 僕は美佐子さんを押し退けて、依頼人の前まで行くと、営業スマイルを浮かべた。
「すみませんが、僕は善良な高校生で、平日は学校に通っていますから、危ない仕事は美佐子さんだけに頼んでください」
 きっぱりと僕はそう断って一礼をすると、くるりと背を向けて奥の事務所へと向かう。が、がっしりと僕の腕をつかんで美佐子さんは僕を睨つけた。
「恨むからね」
「うっ」
 美佐子さんはそう言ってから僕の腕を放して、依頼人のところへと行った。僕は実に嫌な予感を覚えていたのだが、今更やると言えないし、やりたくないのも事実だ。
 僕はおとなしく事務所を通って自宅へと戻った。
 丁度その時インターホーンが鳴った。慌てて、ダイニングのインターホーン用の受話器を取る。
『イタリアン・ピザですが』
「はーい、今行きます」
 短く返答をして受話器をフックに戻す。
 ま、美佐子さんが何をしようと、とりあえず僕は平凡に過ごすだけだ。
 あとはピザを食べるだけくらいかな?

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