05 さよなら、僕の平和な日々よ
翌朝の美佐子さんの機嫌は、急転直下的に悪かった。もちろん、僕は取り合う暇もなく学校に来たのだが、この分だと家に帰っても不機嫌なことだろう。
まぁ、いいさ。どうせセットフリーターの仕事を受ければ、近いうちに家を留守にするだろう。仕事を終えるまで顔を見なければ、そのうち機嫌も直るだろう。
本日、すべての授業を終えた僕は、モップを片手にだらだらと教室の掃除をしていた。
さて……今日は何を食べようかなぁ……なんて考えていると、時々空しくなる。
「良一、良一!」
振り返ると黒田が僕に近づいてきた。今の黒田の表情を言葉で表現すると、『ニタァ』といったところだろう。非常にすけべ面をしていた。
「見ろよ、これこれ」
黒田は僕にスマホを差し出した。画面を見ると、ぱっちりメイクの、かわいらしい女の子が写っている。いくら僕の好みのタイプが絶滅危惧種・大和撫子でも、普通にかわいい子はわかいいと思うくらいの価値観は持ち合わせている。
ただ、そこに理想も夢も希望も抱けないだけであって。
「おぉ……まさか、彼女?」
黒田に彼女がいたという話は聞いていない。こいつはナンパや合コンに命をかけていて、世界中の女の子と知り合うのが夢だと、本気で公言するだけの馬鹿、もとい女好きだ。特定の彼女を作ると、行動が制限されるために、その夢は夢のままに終わってしまう。そのためにいつも違う女の子と、短い付き合いを繰り返してきた。
「違う、違う。今日の合コンの相手の一人。どう、良一も一緒に行かねぇ?」
「うーん……」
僕は自分の予定を考えてみる。
家に帰っても美佐子さんは不機嫌だし、今日は店番も頼まれてないわけだし?
道場には昨日顔を出したので、今日行くこともないし。
「そうだな」
行ってみようかなと続けようとしたところで、ドアが壊れるんじゃないかという勢いで誰かがドアを開けた。驚いてその方向に視線を向ければ、ドアを開け放った主は、教室中をぐるりと見回し、僕に視線を固定させた。その目つきはまさに獲物に狙いを定めた肉食獣の眼光だ。
「柿本ぉ!」
同じクラスの稲元だ。稲元は自分が所属している、バスケ部のユニフォームを着ていた。
稲元は気色悪いくらい潤んだ瞳で僕を見ると、僕に近付きモップを掴んでいた僕の手をがっしりと握りしめた。
「な、何だよ!」
男に手を握られても嬉しくない。僕は稲元の手を振りほどく。しかし稲元は再び僕の手をぎゅうぅっと握りしめた。
「頼む! 今日一日だけでいいんだ!」
いったい何が?
落ち着け稲元、意味がわからないぞ。
「だから何が今日一日なんだよ!」
僕は稲元の手をまた振りほどいて、持っていたモップを横にして稲元に対してのバリケードを作る。すると稲元はモップの柄を、がしりと掴んだ。
「うちに来てくれ!」
「何しに?」
稲元とは話をするが、それは教室の中であって、プライベートで付き合う程、仲がいいわけではない。まぁ、お互いに見知った同級生という認識だろうと思う。
だからうちに来いといわれても、僕には正直ぴんとこない。理由が思いつかないからだ。
「バスケに決まってんだろ! こともあろうに矢部が怪我したんだよぉ……それでな? 今日練習試合があるんだけど、この試合に負けると体育館の使用が、週に四回から週に二回に減らされんだよ! 頼む! インハイ選抜前にそんなことになったら、困るんだ」
「僕はバスケ経験ないよ。他をあたれって」
僕は学校の授業と、休み時間の遊び程度しかバスケをしたことがない。別に嫌いではないが、ルールを網羅するほど、真剣に打ち込んだこともない。
それにそんな大事な試合に、僕のような素人が出てどうなるというのだろうか? まぁ、試合放棄になるよりマシと考えたのだろうけど。
「身長が百八十センチ以上あって、そこそこに運動神経のあるやつなんてさ、大抵他の運動部に入っている。帰宅部でその条件に当てはまって、なおかつ、頼めそうなのって柿本しかいないんだ。頼む、な? 帰りにマック食い放題!」
うぅ……どうするかなぁ?
ちらりと黒田を見れば、どうするんだ? というような視線。
かわりに稲元の視線は、頼むよぉ! というような哀願するような視線。
黒田と合コンに行けば、飲み代食い代は払わなきゃならないし、おそらくヘタすりゃ女の子の分も払わなきゃならないだろうしなぁ?
稲元につき合ってバスケに出れば、例え試合に負けてもマック食い放題で、今夜の夕食は済ませられるし?
「僕は細かいルール知らないよ?」
所詮僕が覚えているのは玉遊びという程度だ。選手としての働きを期待しないで欲しい。
「いい! それでもいい! ボールが渡ったらドリブルしてシュートするだけ! できないときは味方にパス! カットインできたならなおいいけど、そこまで期待しない! 出てくれるだけでいいんだ!」
切羽詰っていることだけは理解した。だがしかし、ふと胸に疑問が湧く。
「補欠はどうなんだよ?」
主力選手の一人が故障したからといって、普通は控えの選手がいるはずだ。状況が状況なのだから、この際一年生でもいいだろうに。
「いるわきゃないだろ? うちは弱小バスケ部なんだからさ」
あぁ、なるほどね。選手全員が自動的にレギュラーになる程度の部員しか、存在しないわけだ。
うちの学校のバスケ部って、そんなに弱小だったんだ。
だったら選抜はともかく、インターハイに出られないと思うけどな。
しかし心優しい僕は事実を告げることはなく、やや仰々しく頷いて見せた。
「しょうがない。けど、負け試合になってもいいんだろうな?」
勝っても負けてもマック食べ放題。この誘惑はなかなかのものだと思う。
「うー、そりゃ困るが、怪我した矢部を無理やり出すよりマシだ。こともあろうに割れたガラスで足をざっくりだ。何針縫っているかもわかんねぇんだ」
「おいおい、病院は?」
洒落にならない怪我のようだ。いったいなんだってそんなことに。
「今うちのマネージャーと向かったよ」
そりゃ大変だ。しょうがない、たまには友情に厚いところを見せてやろうじゃないの。
「ということで、黒田。またな」
「ちぇっ……良一がいりゃ、結構お持ち帰りできると思っていたのになぁ。結構レベル高いんだぜ? S高はいい女多いんだから」
黒田が言うくらいだから、相当レベルは高いのだろう。けれどこの黒田の見立てなら、尻はきっと軽い。
「また頼むよ。ほら、稲元がかわいそうじゃん」
僕は笑いながらそう言うと、用具入れにモップを戻して自分の机に近付くと、リュックを手に稲元のところへと戻った。振り返ると早いことに、黒田はもう教室から姿を消していた。相変わらず、女のこととなれば早いな、あいつは。いつか病気をうつされるぞ。
「じゃ、行こうか? ユニフォームとか貸してくれんだろ?」
そう言うと、稲元は安心したように笑った。
「もちろん!」
救われたという顔の稲元に続いて、僕も教室を出て歩き出した。
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