見出し画像

「ようこそ、妖崎あやかし法律事務所へ」第10話

「改めまして、須崎慎吾と申します。えと……人間、です」

 十分後、コーヒーの香り立つ客間にて。

 人間社会であればまず言うことはないであろう自己紹介をして頭を下げた莉奈の夫・須崎慎吾は、線が細く、毒気のない顔つきをした――有り体に言えば、人は良さそうだが気弱そうな青年だった。

 確か莉奈からの情報だと、中堅IT企業に勤めるシステムエンジニアだとか。あまり陽に当たっていなさそうな感じからするに、インドア派なのかもしれない。

 客間の隅――定位置に着座した優奈は、気恥ずかしさを隠しながら、頭を下げ返す。

「先程は失礼いたしました……こちらが事務所の弁護士の妖崎新先生。私は法律事務員の美咲優奈と申します。本当に、殴ってすみませんでした……」
「いえ、こちらこそ、うろうろと不審に見えたことでしょうし……」

 そう言いながらも、慎吾は未だにキョロキョロと周囲を伺っている。

「本当に……あったんですね。妖専門の法律事務所が……莉奈さんからは聞いていましたが。外からは何も見えなかったのでびっくりしました」
「見えなかった?」

 尋ね返してしまってから、説明を求めて優奈は新を見る。新は淹れ立てのコーヒーを、ずずずと音を立てて慎重に啜っていた。

「波長が合わないんだろ」
「波長?」
「簡単に言うと妖とか神とか、まぁ人外を見る能力のことだ。テレビやラジオの周波数――チャンネルと似たようなもんだよ。あちっ」

 と言って新はマグカップを口元から離す。暑くなってきたしそろそろアイスコーヒーでもいいんじゃないかと優奈は思うのだが、新曰く、寝覚めの一杯は絶対にホットらしい。

「人も妖も、それから精霊も神も、全く違う世界に存在しているわけじゃない。ただ、チャンネルが合わないから認識できないだけだ。認識出来なければ存在しないも同義。――人間が認識できなくとも存在している存在は大勢いる」

 ふーふーして、またちびちびとコーヒーに口を付ける。

「神だとか妖怪だとか天使だ悪魔だとかは、あくまで人が定めた区分で、そこに程度の差はない。――ま、神も仏も妖も似たようなもんだよ」

 そのあたりの存在を一緒くたにまとめてしまうのも優奈的にはどうかと思うのだが、つまるところ、目に見えるものが全てではない――ということだろう。

「あれ、でも莉奈さんは昔『人前で角や牙が出て困った』って言いましたよね。人間には見えないんじゃないんです?」
「あぁ、あれな。俺や鬼娘なんかは割と人間寄りの存在だからな。お前も、鬼娘の鬼姿ぐらい見たことあるだろ? さすがに」

 突然話を振られ、慎吾は慌てて首を縦に振る。

「逆に、天狗は精霊に近い存在だから、ほとんどの人間には見えないな。綿貫の狸は成り立ちからそうだが、動物の妖だからな。普通の人間にも普通の狸として認識出来る。隠れようと思えば隠れも出来るけどな」
「はぁ、そういうものなんですね」

 分かったような、分からないような。優奈は上目に天井に視線を向けながら、僅かに首を傾げた。
 一概に妖と呼んではいるが、どうやらその種の違いは思ったよりも大きいらしい。

 人間の人種のようなものだろうか、と一瞬考え、それよりは人間に対しての猿やゴリラの関係性に近いのかもしれないと考える。

 ――ともあれ。

「この家は隣の神社の力を借りて、家ごと『見えない』ようにしてあるんだ」

 なるほど。そして慎吾は波長が合わないから見えなかった、と。

「事務所の存在は莉奈さんから?」
「あっ、はい。鬼の自分と関わる以上、何か困ることも出てくるだろう……その時はここを頼るようにと。ただ実際訪れてみたら塀があるだけの何もない空き地だし、表札も何も出てないからここであっているのかと……」
「今は見えているんです?」
「あ、はい。敷地内に入ったら見えるようになって……」

 ず、とコーヒーを啜って、新は慎吾を見る。

「さっきも言ったが、ここは人外の領域だからな。触れたことでチャンネルがずれたんだろ。大変だな、これから今まで見えなかったモノがいっぱい見えるようになるぞ~」

 そう慎吾を茶化して、新はニヒヒと楽しそうに笑う。

「え、えええぇ……」

 ちょうどコーヒーカップに手を掛けたところだった慎吾は、恐る恐るその中身を覗き込んだ。それはただのインスタントコーヒーです。

 と微笑ましく慎吾を眺めながら、優奈はふと気付く。

 そういえば優奈が初めてこの家に訪れたのはいつだっけ?

「それで、その、既に莉奈さんはこちらに……?」

 コーヒーで舌を湿らせた慎吾が新に尋ねる。

「昨日来た」
「きっ、昨日ですか」

 まさか昨日の今日だとは思わなかったのだろう。カップに口を付けていたら拭きだしていそうな勢いで、慎吾がカップを取り落としかける。

「その、それで彼女はなんと……」
「慎吾さんとの離婚調停を申し込んできました」
「り、離婚調停!? そ、そんな、そんなに本気で……」

 その事実に、慎吾は明らかにショックを受けていた。

 愕然とした面持ちで、膝の上に両手をおいてテーブルの上を見つめている。その視線は、定まっていなかった。

 その様子に優奈は怒りを覚え、剣呑な目を慎吾に向ける。
 彼がそんな被害者面する資格はない。被害者は、莉奈の方だ。

「……莉奈さんのこと、つけ回しているそうじゃないですか」
「そっ、それは、彼女が電話にもメッセージにも応えてくれないから……ちゃんと話し合いたくて……」
「でも別れ話を切り出した時、随分と怒ったらしいじゃないですか」
「怒った? 僕が?」

 虚を突かれたように目を丸くしてから、眉を顰める。予想外過ぎる慎吾のその反応に、前のめりになっていた優奈は思わずきょとんとなった。

(え? あれ?)

「確かに、驚いて声を荒らげてしまったかもしれません。で、でも怒ったわけじゃないんです! 彼女、最近ずっと体調悪そうにしてたから、それと何か関係があるのかって聞いたら、そのまま飛び出してってしまって……」

 慎吾は必死に弁明する。
 優奈は新と顔を見合わせた。

「あの……莉奈さんは何故僕と別れたいと……?」

 二人の様子から違和感を感じ取ったのか、おずおずと尋ねる慎吾を前に、優奈は新に視線を送る。

 依頼人の相談内容をみだりに他人に話すのはタブーだ。それが離婚相手で、ストーカーの可能性がある相手ならなおさら。相手を刺激することにも繋がって危険だ。だが慎吾の反応を見るに、莉奈の主張が全て正しいというわけでもなさそうだった。

 優奈の無言の確認に、新は頷いて許可を出す。

 優奈は莉奈から聞き取ったことを一つずつ伝えていった。明確な理由はないこと、日々のストレスの積み重ねだということ。

「莉奈さんがそんな風に……」

 全てを聞き終えた慎吾は、思い詰めた様子で呟いた。
 だが、ここでショックを受けてただ黙ってもらっては困る。

「慎吾さんの言動は、何か理由があってのことなんですね?」
「も、もちろんです」

 慌てて頷く慎吾の顔つきが変わる。どうやら彼も、何か変だと気付いたらしい。

「……味が、明らかにおかしかったんです」

 真剣な面持ちで話し始める。

「二ヶ月くらい前のことです。お聞きになっているかと思いますが、自分は仕事を忙しいことを言い訳に、莉奈さんに家事任せっぱなしにしてました。特に、食事の面では……たまに失敗すると、本人も申し訳なさそうにしていて、でも自分も任せている身です。失敗すらも可愛く思えました。……でも、二ヶ月ぐらい前から、明らかに味がおかしくなったんです」

 その時を思い出してか、膝の上に置いた拳に力が入る。

「極端に濃かったり、極端に薄かったり。だからさすがにおかしいと思って指摘したんです。どこか体調でも悪いのって。そしたら彼女、急に怒りだして……私だって疲れてるの、そんなこというならあなたが作ってって。そんな風に怒ったこと、今までなかったのに」

 その頃からです、と慎吾は続けた。

「その頃から、彼女の様子がどことなくそれまでと違うことに気付きました。顔色が悪いことが前より増えた気がして、仕事も休むことが多くなって……だからやっぱり体調が悪いんじゃないか、病院に行った方がいいんじゃないかって言ったんです。家事ができなてないなんてどうでもいいんです」

 なるほど。莉奈が『文句を言われた』というのは、家事のことではなく体調のことだったらしい。

「仕事を休んでどこかに行ってるみたいだし……でもそんなに体調悪そうにしてるのに、どこに行くんだろうって、僕は心配になって……」
「莉奈さんは、慎吾さんが家にいない時間を見計らって外出してたって事です?」
「おそらくそうだと思います。一度だけ、僕がかなり早く帰れる日があって、それで帰ったら、しばらくしてから莉奈さんが帰ってきたんです。すごく驚いた様子で、でも仕事に行っていたわけではなさそうで……」

 それが決定打になって、莉奈のほうは離婚話を切り出したと言うことだろう。

 頬に手を当てて、優奈は考え込む。

「……莉奈さんは本当に離婚したいんでしょうか」
「えっ?」

 やがてぽつりと零した優奈に、慎吾は戸惑いの声を上げた。

「なんだか、話を聞いた感じ、慎吾さんを嫌ってはいないけど避けてる感じがするんです。ストーカー被害に遭っているなら警察に相談したらどうかと勧めた時も、事を大きくしたくないって……でもあれ、慎吾さんを犯罪者にしたくなかったんじゃないかなって」
「……そう、だったらいいですね。でも、莉奈さんが本当に離婚を望んでいて、それで彼女が幸せになるなら、僕は……」

 その先の言葉はない。続く言葉は、慎吾が望むものではなかった。
 けれど莉奈のためなら、それを選ぶことだって――

 言外のその覚悟に、客間に沈黙が満ちる。その時だった。

「あーあーあーめんどくせぇ」

 新が場の空気を壊すように、声を荒らげた。

「おいガキ。聖人君子ぶってるんじゃねぇ。お前はどうしたいんだ」
「どうって……」
「別れるか別れないのかってことだ」

 いいか、と新は美麗なその右手の人差し指を、真っ直ぐ慎吾に向けた。

「弁護士ってのは折り合いを付ける仕事だ。離婚したいって言ってる奴がいて、相手が離婚していいって言うなら話は終了。はい離婚しましょうで完了なんだよ。分かるか? お前がノーと言わなかったら、ここで終わるんだ。あとで何と文句を言おうとも、もうどうしようもできねーんだよ。――それでいいならイエスを出せ」

 畳みかけて、突きつける。
 イエスかノーか。白黒したその二択に、慎吾は黙ってしまう。

 答えは返らない。そのまま数秒、新はスッと立ち上がって客間の戸に手を掛けた。

「答えが出ないなら、俺は依頼人の要望を優先させるだけだ。別れて終わり、はいサッパリ。ユウ、手続きを進めるぞ。――答えすら出せない。結局、その程度の気持ちだったってことだ」
「――っ、ふざけないでください!」

 瞬間、激昂が事務所に轟いた。

前へ / 最初に戻る / 次へ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?