「ようこそ、妖崎あやかし法律事務所へ」第13話
ケーキの箱を手に提げた優奈は、足取り軽く自宅マンションの最寄り駅で降りた。
優奈の自宅の最寄り駅から、事務所の最寄り駅までは乗り換えなしの一路線で行くことが出来る。以前は乗り換えもあったし、今よりもっと時間もかかっていた。それに比べたら、随分と楽になったなと思う。
――と考え、気付く。
(あれ? 前っていつだっけ?)
前――そう。野々宮先生の法律事務所に勤めていた時だ。あの時は最寄り駅に入っているこの新しい路線から、一度ローカル線に乗り換えなくてはいけなかった。本数はそこそこあったものの、結構電車の距離があって、通勤時間は今の倍以上かかっていた。
だから新のところに務めだしてから随分楽になった。さすがに駅から歩いて二十分は堪えるけど……まぁ慣れればそうでもない。務め始めた頃は、よく靴擦れを起こして、痛くて――
(あれ?)
優奈の中にまた新しい疑問が生まれる。
(いつから通い始めたんだっけ?)
今の勤務先――新のところに。
いや、先月からだ。母が言っていた。急に仕事を変えたって。そう。優奈は勤め先を変えた。野々宮という小さな街弁の個人事務所から、新が営む、人外専門のあやかし法律事務所に――
(どうして?)
どうして変えたんだっけ?
「優奈さん!」
その時、降って湧いたような突然の呼び声に、優奈はハッとして振り返った。
そこには女性を連れた一人のスーツ姿の男性が立っていた。人当たりがよさそうな、けれど帆理とはちょっと違う系統の――帆理が文系のイメージならば、こちらは明らかに理系といった雰囲気の男性が、優奈に向けて小さく手を挙げていた。
「あぁやっぱり優奈さんだ。お久しぶりです、覚えてますか? 真垣です」
「えっと……」
優奈は記憶の糸を辿る。見覚えのある顔ではあった。けれどなかなか思い出せず焦っていると、唐突に「あっ」となる。
「あっ、ま、真垣陽一さん? あの、野々宮先生のところに来ていた……」
優奈が言い当てると、パッと真垣は顔を輝かせた。
「そうです! あぁ覚えていてくれて嬉しいな。あ、こっちは妻の綾子です。お会いしたこと……あったかな? その節はお世話になりました」
控えるように真垣の斜め後ろに立っていた女性が、無言のままぺこりと頭を下げる。こちらも見覚えのある顔だった。真垣陽一の妻・真垣綾子――華やかな顔立ちとは反対の、大人しい雰囲気が印象的な人だった。その肌は青白いほどに白く、どこか焦点の合っていないようなぼんやりとした眼差しが、ミステリアスな空気を醸し出している。
「いえ、こちらこそ……」
そうは言うが、続く言葉が出なかった。真垣がどんな要件で野々宮の事務所に出入りしていたのか、どんな風に妻共々お世話になったのか全く思い出せない。
頭が、痛い。
「それにしてもよかった」
と真垣は安堵の表情を見せる。
「事務所が突然締まって、野々宮先生があんなことになって……優奈さんも被害に遭われたって聞いて、気が気じゃなかったんです。僕も警察に話を聞かれて……優奈さんのお見舞いにも行きたかったんですが、警察は入院先をまったく教えてくれなくて……その後どうしてるのかなって、妻とも話してたんです」
「えっ……?」
真垣の話に、優奈は困惑の声を零してしまう。
優奈が被害……? 野々宮……先生があんなこと?
「優奈さん? どうしました?」
わけが分からない、という顔をしていたのだろう。真垣が心配そうな目を向ける。
「あっ、いえ。その、気に掛けて下さってありがとうございます……ちょっと、記憶があやふやで……」
咄嗟にそう言い訳すれば、真垣は気まずそうに眉尻を下げた。
「あ……僕のほうこそ、無遠慮にすみませんでした。そうですよね。忘れたいですよね……『屍鬼事件』に巻き込まれたなんて。特に……野々宮先生は、無残な姿でお亡くなりになったと聞きますし……」
今度こそ優奈は固まった。
(野々宮、先生が……)
野々宮秀造が。優奈が勤めていた法律事務所の弁護士が、
(死んだ?)
瞬間、激しい頭痛が優奈を襲った。
「っ……」
耐えきれず顔を顰めて、頭を抑える。
痛い、痛い。頭が痛い。割れるように痛い。
野々宮、屍鬼事件、死んだ、被害、巻き込まれた――
キーワードが次々と脳裏を駆け抜けては、頭痛を激しくしていく。
優奈、入院、警察、事務所――そうだ。
――なんで忘れていたんだろう。
力を失った優奈の手から、するりとケーキの箱が滑り落ちる。箱は地面に落ちて、コトンと、軽い音は人の行き交う雑踏に響くことなく掻き消される。
思い出すのは暗い夜道。背後から近づく誰か。喉元を掻き切る鋭い刃。噴水のように噴き出す血、固いアスファルトの感触、流れ出ていく命の温度、寒くて寒くて、寒くて――
「優奈さん?」
怪訝そうに優奈を呼ぶ。その声さえ、頭に入ってこない。
(あぁ、そうだ――)
思い出した。
美咲優奈は一度、殺された。
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