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学費のガ。奨学金がカギだった。

冴えない頭のせいで、学費の高い私学に進学することになったわたしが、なんとか学費を払うことが出来たのは奨学金のおかげだった。

日本育英会の時代に

奨学金というとまずは日本育英会からの奨学金だった。当時は無利息の奨学金と利息ありの奨学金の二種類があった。返還しなくていい奨学金はなかった。借りられるかどうかは、高校の成績や親の収入によって決まる。

次に大学が独自に貸し出す奨学金があった。これは日本育英会の奨学金が受けられなかった学生に貸し出されるというシステムだった。

というわけで、まずは日本育英会に申請をした。

とにかくお金がかかる生活に

我が家の収入は、父の給料と母の給料との合計金額を日本育英会に申請した。母はわたしが中学二年の時から働きに出た。母が働いたおかげで、大学の受験料も入学金も一年目の学費も出してもらえた。

塾や予備校に通う余裕はなかったので、参考書だけは買ってもらった。しかし、大学は入るまでにもお金がかかると少しうんざりしていた。

勉強を頑張れば、学費の安い国公立大学に入れるのだけれど、これはどうにもならなかった。世の中に数学がなければなんとかなったとは思う。自業自得だ。

正直者だと感心されて

奨学金を受けるためには面接がある。面接日の朝、わたしは叔父からもらったオメガの腕時計をしていた。腕時計はひとつしか持っていなかったのだけれど、面接の直前にふと気づいて、時計を外した。

けれど、そんなことをしなくても、わたしがビンボーだということは書類を見れば明らかだった(らしい)。

まず第一声が「あなたみたいな人が一番損をするんですよ」だった。

何のことかというと、父の給料だけならば何の問題もなく奨学金を借りられる。でも父の給料では生活が苦しいからと働いた母の給料を合算すると、収入が多くて判断が厳しくなるとのことだった。

世の中の人はみんなビンボーなのかと自分の不明を恥じた。するとわたしの話を聞いたA子があっさりと言った。

そんなんお父さんのお給料だけ届ければわからんのに、と。

おお。生活の知恵だ。

「あなたみたいな人」と言われたのは「あなたみたいに正直に申請する人」という意味だったのかもしれないと気づいた。

何はともあれ

収入が多いという理由で奨学金を受けられないかと思っていたら、なんと無利息の奨学金を借りられることになった。ラッキーだ。

母の同僚の息子さんが大学生で、学費を奨学金とアルバイトの収入で払っていると母がよく言っていた。立派な息子さんだと言っていた。

だからわたしも奨学金とアルバイトで二年目からの学費を出した。教科書を買うお金や定期代、お小遣いも全部自分で出した。

だからわたしはビンボー学生だった。

冷淡な母の見通しに

奨学金をいくら借りたのか、資料を探したのだけれど見つからなかった。概算で180万円くらいだったと思う。

これだけでは学費に足りないので、家庭教師のアルバイトで稼いだお金も注ぎ込んだ。それ以外に地味なアルバイトをして洋服を買ったりもした、ような気がする。

家庭教師のアルバイトは中学三年の時の担任教師の紹介だった。小学生の家庭教師もした。こちらは母が買い物をしていたお店の息子さんだった。

この頃、母は、自分でアルバイトを探さないわたしを見ていて、いつか大きな壁にぶつかると思っていたらしい。母の予想は見事に的中したけれど、ありがたくない見通しを立てていたものだ。どこか冷めたところのある母だ。

奨学金返還は長引いて

奨学金を返すのは卒業した年の年末からだった。毎年12月に10万円を返還する。順調にいけば40歳で終わるはずだった。でもわたしは何度も返還猶予を申請したので40代半ばまでかかった。

全部返して証明書が届いた時には、やっと連帯保証人の叔父に見せることが出来てホッとした。

今は国公立の大学でも私学と変らないくらい学費が上がっていると聞いて少し怒りが湧いた。学費が安いから進学できるという子どももいただろう。

大学に行かなくても豊かな未来はあるだろうけれど、大学に行くという道をお金のあるなしで決められるのは残酷だと思う。

いろいろあったけれど、わたしは大学に行けてよかったと今は思っている。



【シリーズ:坂道を上ると次も坂道だった】でした。


写真は「みんなのフォトギャラリー」からお借りしました。




地味に生きておりますが、たまには電車に乗って出かけたいと思います。でもヘルパーさんの電車賃がかかるので、よかったらサポートお願いします。(とか書いておりますが気にしないで下さい。何か書いた方がいいと聞いたので)