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宗教が嫌だった理由とは?

以前キリスト教について学んだというか、自分なりの発見というか、そんなことを書いたことがあるのですが、私はもともと「昔から宗教って胡散臭いなー嫌いだなー」と思っていました。その理由ってなんだったのか?それはよく分かっていませんでした。でもその理由の根本はこういうところだったのかもしれない!と思った発見があったのです。
(過去記事はこちら)

嫌いな理由、それは…
「神様は無償の愛を下さっているみたいなことを言うけれど、“神様を信じれば救われる”みたいな“救われる条件”みたいなものがあるじゃないか。それのどこが無償の愛なんだ?」ということだったように思ったのです。
“信じれば救われる”つまり、救ってもらうためには何かをしなければならない。そんな条件プログラムみたいなもので、救われるとか救われないとか判断されるなんてことが嫌だったんだと思うのです。

でも、イエスキリストをグレートティーチャーとしての1人の先生として考えた時のメッセージとは、“信じなくても皆そもそも救われている”ということだったんじゃないか?と感じたのです。
キリストはユダヤ教徒だったらしいですが、ユダヤ教の安息日という考え方を生活のために守れない人もいれば、生きるためにローマの手先と言われてしまうようなお金の取り立てをせざるおえない人もいることを知り、そんな人も救われるべきだと感じた。それは世の中には色んな人がいるという現代の多様性による、“様々な人の在り方を認める”という考え方にも繋がるように思うのです。

今現代でも沢山の問題をはらんでいる差別や人権の問題の一つの答えは、すでに2000年前に存在していたということが、私にとって大きな発見だったし、とても学びでもあった。“信じれば救われる”という世界から“信じなくてもそもそも皆救われている”という考え方に繋がれば、私は宗教というものが嫌ではなくなったのです。

“救われる”という言葉の定義は曖昧にしていますが、皆もともと救われているのなら、特定の宗教を信仰してもいいし、信仰しなくてもいい。大事なのは、自分の信じる宗教以外を阻害し、差別しないこと。
“信じれば救われる”という考えの行き着く先は、“特定の神様”を信仰しない人物はダメな人間であり可哀想な人間であり、断罪すべき人間であり、救われない存在であるという考え方なんじゃないだろうか?
一方で、“信じなくてもそもそも救われている”という考え方の行き着く先は、どんな特定の神様を信仰していようがいまいが、人は“それよりも大きな存在(大神様のような感じかな?w)”によってもともと救われている。
どんな神様を信じていようが、自分とは違う神様を信じていようが、神様を信じていなかったとしても、お互いの存在を認め合える考え方に繋がるんじゃないだろうか?

もちろんその中で、自分とは違う宗教との対立も起こってしまうかもしれないし、嫌いな人間もいるかもしれない。でも対立してても、嫌いでも「その人はそこに存在していていいんだ。だってどんな人であれ、あの人の存在を神様は認めていて、神様に愛され、救われている存在なんだから」ってことを忘れないことが大切なんじゃないだろうか?

“信じれば救われる”
から
“信じなくても、もともと救われている”
という考え方へ。

イエスキリストの話から、“信じなくても、もともと救ってくれる”そんな神様なら、私も自身の心の中に抱いていたいなーと。
そんなことを考えたのです。


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