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ブルノ滞在日記⑦ 最寄りの本屋での収穫と、チェコ文学センター長との会食

昨日は、午前中は図書館で調べ物をして、昼食に用意したサンドイッチを食べて帰宅。帰宅途中に近所にあるすこし店構えの悪い(←失礼)本屋さんに入った。店内には段ボールが積み重なり、おまけに掃除機が横たわっていた。「散らかってるけど、好きにみてもらっていいから! ごめんなさいね!」と言う店員さんに、「いや、全然気にしないんで大丈夫です。ていうかわたしのほうこそお邪魔じゃないですか?」など言いながら、店内を物色。教科書や図鑑が中心のようだが、小さい店ながらも近年出版された代表的なのチェコ文学、海外文学は一通り揃っている。これは、と思ったのはまず、2021年にブルノの出版社ホスト Host から出版された、ディタ・ターボルスカー Dita Táborská の小説『黒い言語 Černé jazyky』。外務省(? zahraniční odbor ministerstva)に勤務する台湾人バオ Baoの満ち足りた人生は、元妻セドリカ Sedrika が不治の病にかかり、息子ダヴィト David が、遺産をめぐってバオと争っていた叔父に会うことを決心したことをきっかけに、狂い始める。そして、バオという人間や彼の家族を形作る台湾の歴史や、彼の先祖たちが味わってきた苦しみが徐々に明かされていく……。紹介文を読む限りではこのような物語だ。作者ターボルスカーは、イスラエル大使館やチェコの外務省、ウランバートルのチェコ大使館に勤務したのち、2018年から台北の領事館(かな? zastupitelský úřad)で働いており、序章として台湾史の概略まで添えられている。おそらく台湾での生活や文化にもかなり精通していると思われるので、信頼性が高い。単なるエキゾチシズムに陥るような物語などでは決してないだろう。

台湾を舞台としたこの作品は「チェコ文学」という区分からはかなり外れる。一見するとあまりチェコ的な作品ではない。しかし、例えば昨年、チェコの上院議員ヴィストゥルチル氏 Vystrčil は台湾を訪問して「わたしは台湾人だ Jsem Tchajwanec」と語り、台湾との連帯を表明した。そういう意味では、この作品はある意味非常にチェコ的だと言えるかもしれない。わたし自身「プラハのドイツ語文学」という、チェコ研究なのかドイツ研究なのか非常に曖昧な分野を専門としている。だからこそわたしは、チェコ文学を単にチェコを舞台にした作品、チェコ人を主人公にした作品、チェコの歴史や社会問題を扱った作品、チェコ語で書かれた作品に限定したくない。チェコという国は小さいし、チェコ語話者は世界的に見て本当に少ない。けれど、彼らが書く文学に境界はないはずだ。言語的な境界があれば、翻訳者が取り除けばいいし、文化的な境界があれば文化交流をすればいい。インゲボルク・バッハマン Ingeborg Bachmann は、シェイクスピアの「冬物語」に則って、「ボヘミアは海辺にある Böhmen liegt am Meer」と題する詩を残した(ボヘミアとは、今日のチェコ共和国、特にチェコ共和国の北半分を指す)。わたしは、チェコ文学の境界線がどんどん広がってくれることを望んでいるし、この作品で、チェコ文学が台湾にまで広がったことに密かな喜びを抱いている。

海外文学同人雑誌『翻訳文学紀行』の活動を始めてから、中国文学、台湾文学の専門家とたくさん知り合った。まだ最初の30ページほどしか読めていないのでなんとも言えないが、この作品が日本語で紹介されたら興味を持つであろう人の顔が次々に浮かんでくる。例えば、『台湾生まれ日本語育ち』の温又柔さんなんかは、この作品を読んだらどんな風に思うだろうと想像する。タイトルとなっている「黒い言語(原文は複数形!)」とはなんだろうか? 台湾の中国語? 大陸で話されている中国語? あるいは日本語も関係してくるかもしれない。なぜ「黒い」と表現されるのだろうか? 興味は尽きることなく湧いてくる。

『黒い言語』の紹介が長くなってしまった。本屋では、『黒い言語』に加えて、話題の作家アレナ・モルンシュタイノヴァー Alena Mornštajnová の最新作『11月 Listopad』も迷わず購入。そして、古本コーナーではヤン・ネルダ Jan Neruda の『小地区物語 povídky malostranské』も手に入れた。本屋さんの知り合いの教授から引き取った本らしく、処分に困っているようだったので、無料でおまけしてくれた。ラッキー。また来よう。

本屋を後にして帰宅。帰宅後は『翻訳文学紀行Ⅲ』の朗読イベントに向けて、スウェーデン文学「それでけっこう」の朗読箇所の編集をした。実際に自分で朗読して時間をはかりながら、不要な場所を削っていく。作業が終わった瞬間にどっと疲れに襲われた。こら、うつ病患者、休め! 夕食を取ってシャワーを浴びて、8時前にベッドに入った。

今日の起床時間は6時前。睡眠時間は十分取れたが、悪夢を見た。うつ病が苦しくて布団から出られない。けれども今日は大学でチェコ語の講義をしなければならない。夫が心配そうに「もう3月だから講義は終わったんじゃないの?」と尋ねるが、最終講義をした記憶も、試験をした記憶もない。布団から抜け出せないまま時間だけが過ぎていく……そんな夢だった。これは疲れている。朝食を取ったあと夫と電話する。今日の昼は、チェコ文学センター Český literární centrum のセンター長との会食がある。きっと緊張するだろうから、午前中は図書館にいくのはやめて、家で過ごした。

11時過ぎに家を出る。昨日の朝は吹雪いていたが、今日は春の訪れが感じられる暖かさだった。図書館でセンター長マルティン・クラフル Martin Krafl 氏と待ち合わせる。クラフル氏は、なんと、劇作家で、冷戦後の初代チェコ・スロヴァキア大統領、ビロード革命後の初期チェコ共和国の大統領であるヴァーツラフ・ハヴェル Václav Havel のもとで長年働いた経験を持ち、ハヴェルと共に来日した経験も、先の天皇がチェコに来訪した際にアテンドした経験もあるという。古き良きヨーロッパ紳士といういでたちで、気さくでありながら非常に上品な話し方をする方だった。例えていうならば、ウェス・アンダーソンの『グランド・ブダペスト・ホテル』に登場するホテル支配人グスタフから女癖の悪さを引いた感じだ。彼は、今回の滞在を実現させるために文化省から公式な招待状を発行してもらえるよう尽力してくださった。非常にありがたい人物だ。曰く、わたしはパンデミックが始まって以来最初の非EU圏からの来訪者であり、わたしの滞在が実現したことは、彼らに取って非常に大きな希望となったという。「あぁ、EUの外から来た人と話をしたのは、一体何年ぶりだろう」と嬉しそうにお話をしてくださった。ありがたい話だ。

様々な人との出会いと、様々な本との出会いによって、頭にはいろんなアイデアが次々に浮かんでくる。けれど、まずは今回のメインの目標である、パヴェル・アイスネル Pavel Eisner の『カフカとプラハ Kafka a Praha』、および『恋人たち Milenky』の翻訳・紹介に集中することにしようと思う。

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