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『ある晴れた夏の朝』 〜原爆投下は必要だったのか (前編)

こんばんは、ことろです。
今回は『ある晴れた夏の朝』という本を紹介したいと思います。

『ある晴れた夏の朝』は、著・小手鞠るい、イラスト・タムラフキコのヤングアダルト小説です。
この物語は、日本にやってきた中学校の英語の先生(日系アメリカ人の女性)が、かつて十五歳だったときに行われた戦争と平和についての公開討論会を思い出す回想の物語です。ちなみに、舞台はアメリカです。

主人公は、メイ(メイ・ササキ・ブライアン)
とある中学校の英語の先生。なぜ自分が日本の学校の先生になろうと思ったのか、理由を話すために当時十五歳だったときに参加した公開討論会の出来事を生徒に話す。
公開討論会では、原爆否定派だった。
母親が日本人で父親がアイルランド人の日系アメリカ人。

ジャスミン(否定派のリーダー)
原爆否定派。ハワイ州生まれ。平和運動家。趣味はヨガと瞑想と料理。

スコット
原爆否定派。ニューヨーク州生まれ。猫が好き。「天才」と呼ばれている。

ダリウス
原爆否定派。ワシントンDC生まれ。黒人。
将来は医師になりたい。趣味は漫画を描くこと。

ノーマン(肯定派のリーダー)
原爆肯定派。ニューヨーク州生まれ。
特技はアイスホッケー。愛称は「スノーマン」。

ケン
原爆肯定派。ニューヨーク州生まれ。日系アメリカ人。
ヤンキースファン。将来はミュージシャンになりたい。

ナオミ
原爆肯定派。マサチューセッツ州生まれ。ユダヤ系アメリカ人。
趣味はガーデニングとバードウォッチング。

エミリー
原爆肯定派。マンハッタン生まれ。中国系アメリカ人。
小説家志望。好きな作家はハルキ・ムラカミ。


日系アメリカ人のメイは、四歳の頃まで日本で暮らしていました。
「桜」というミドルネームを持つメイは、祖父母に桜ちゃんと呼ばれ、母の実家である岡山の家で一緒に生活していました。
その後、メイとメイの両親はニューヨーク州のラインベックという町に引っ越しました。父親が、ラインベックの近郊にあるアート系のカレッジで働くことになったのです。母親の職業は翻訳家です。英語で書かれた作品を日本語に訳しています。その逆の仕事もときどきしているそうです。
そのほかには犬と猫も飼っていて、名前はタローとクロエです。
幼い頃から母親とは日本語で話していたメイですが、アメリカに引っ越してからは日本語をだんだんと忘れていき、家の中でも日本語を話さなくなっていきました。それと同時に日本に対する興味もだんだんと薄れていきました。
そんなメイが、なぜ日本の中学校の英語教師をするようになったのか。
それは、当時十五歳のときに行われた公開討論会に参加したことがきっかけでしたーー。

メイは夏休みに何をして過ごすか、まだ何も決めていませんでした。
友達はカナダでサマーキャンプをしたり、両親とヨーロッパ旅行に行ったり、動物保護施設にボランティアに行ったりとなかなか忙しそうです。
友達の中には夏休み中ずっとバイトをしてお金を貯める子もいるそうです。
わたしもバイトしようかな、このあいだベビーシッターの講習も受けたし、だれか仕事を頼んでくれる人いないかなあ。
そんなことを考えていたら、母から「あなたのお友達が来てるわよ」と呼ばれて誰だろう? といぶかしみながら行ってみると、そこにはハイスクールの先輩男子がふたり。ノーマンとスコットでした。ふたりとも女子学生が「彼氏にしたいランキング5位」に入るハンサムで頭が良くてクールでかっこいい人たち。でも、なんでそんなふたりがそろってわたしの家に? 何の用だろう?
ノーマンが話しだします。
「じつはね、メイ、きみにひとつ、頼みたいことがあって訪ねてきた。八月にね、コミュニティセンター主催のカルチャーイベントとして、ぼくらは公開討論会を開くことにした。参加者には単位も与えられる。つまりこのディスカッションは、サマースクールでもある」
なんだか自分には関係なさそうな話が始まったぞ、とメイは思いました。
「ディスカッションですか? 公開ってことは、会場に聴きに来る人もおおぜい?」
問い返すと、今度はスコットが答えます。
「そのとおりだ。満員になっている会場で、ぼくたちはホットな討論をする。まあ、どちらかといえば、ディベートに近いものになるかもしれないな」
ディベートというのは、なんらかのテーマに関して、異なる意見を持つ人たちがふたつのチームに分かれて、あるいは一対一で、議論を戦わせる討論の形式で、ついこのあいだも、社会科の授業中、銃の規制をめぐるディベートをしたばかりです。
そのときには、自分の本音とは関係なく、賛成派と反対派のグループに分かれて、意見を戦わせました。メイは反対派のグループに振り分けられました。つまり、メイ自身は銃社会をよしとしているわけではないのに、銃規制に反対する立場から意見を主張しなくてはなりません。意見を発表するための事前のリサーチとして、さまざまな資料を集めたり、分析したり、町の人たちにインタビューをしたりしました。このような活動を通して、それまでは見えていなかったさまざまな問題が浮きぼりになってきて、メイはとても興味深く思いました。最後にみんなで投票をして、勝ち負けを決めます。
スコットの話によると、今回の公開討論会の出場メンバーは合計八人。四対四に分かれて戦います。スコットとノーマンのほかに五人の出場者が決まっていて、全員メイよりも上の学年の人たち。よく知っている人もいれば、名前と顔がすぐには一致しない人もいました。
ノーマンが身を乗り出して言いました。
「そこでだね、メイ、きみにもぜひ、この討論会に出場してもらえないかと思っている」
「え! わたしにですか?」
メイは自信がありません。素直に断ろうとすると、スコットがぴしゃりと言います。
「悪いけど、きみ以外に、適任者というか、頼みたい人がまったく思い浮かばないんだ。そうだ、かんじんなテーマをまだ伝えていなかったな。だからきみには話がよく見えてこないんだろう。討論会のテーマはだな、ずばり『戦争と平和を考える』。そのために、われわれは、広島と長崎への原子力爆弾投下をとりあげる。原爆投下は、ほんとうに必要だったのか。そこから討論を深めていって、原爆の是非を問う」
「原爆の是非……」
「メイ、きみは当然のことながら、あの原爆投下が正しかったなんて、思ってないだろう?」
「あ、はい、それはそうですけど、でも……」
メイのとまどいを無視して、スコットがぐいぐい話します。
「うん、それでいい。きみは否定派だ。今回は、八人が原爆肯定派と原爆否定派に分かれて、徹底的に議論を戦わせることになっている。もちろん事前のリサーチも綿密におこなう。ただし、一般的なディベートのような形式的なふり分け方ではなく、日本に対してなされた原爆投下を肯定するか、否定するか、各自の考え方をもとにして、ふたつに分かれている。つまり、肯定派は肯定派の席につき、否定派は否定派の席につく。ぼくは否定派だ」
原爆イコール日本? 日系アメリカ人の生徒なら校内にまだあと数人いるはずなのに、どうしてわたしなのだろう……? そう思っていると、スコットは「否定派のリーダーがジャスミンで、ジャスミンがきみをスカウトしてこいって言ったのさ」と教えてくれました。
ジャスミンは去年の三月、英米軍がイラク攻撃を開始したとき、地元の反戦団体と組んで、校内集会を開き、ほかの学校の生徒たちにも呼びかけて、デモを行った人です。当然校内でも、そして地元の人たちにもよく知られています。
そんな彼女がわたしを……?
実はメイ以外にも候補者は五人いて、三人にはすでに用事が決まっているからとあっさり断られたそうです。
「残りのひとりは?」
「ケンだった」
ケンはメイと同じ日系アメリカ人ですが、両親ともにアメリカ人なのでそこはメイとはちがいます。
そしてケンはなんと、原爆肯定派なのでした。
「ケンはわれわれのリクエストに応じて、ただちに出場を決めた。ただし、肯定派としてだ。いいか、きみと同じジャパニーズ・アメリカンのケンが、日本に対するアメリカの原爆投下を肯定してるんだぞ。きみはそれに異を唱えたいとは思わないのか? 世界ではじめて被爆をした国は、きみのふるさとでもあるだろう」
ふるさとと言われても、おさないときに何年か住んでいただけで、わたしにとっては外国みたいなものなんですけど……と思いながらも、メイは尋ねます。
「あの、ノーマンは肯定派、なの?」
ノーマンは笑みを絶やすことなく、こくんとうなずきます。
「この世には、必要悪ってものがあると、ぼくは信じてる」
「でもスコットは、否定派なのね?」
「もちろんぼくは否定派だ。ナチスを否定するのと同じレベルで、原爆を否定している。否定派は、ジャスミンとぼくと、あとひとり、ダリウスだ。きみが四人めだ。学校では『原爆投下は、戦争を終わらせるために必要だった』と教わったよな。しかし、学校で、いつも正しいことを教えているとはかぎらない」
正反対の意見のふたりが、メイの目の前で仲良く並んで座っています。
この国では決してめずらしいことではありません。異なる意見を持つことと友情は分けて考えなさいと、学校でも教えられています。
わかってはいるのです。わかってはいるのですが、なかなか心が追いつきません。

結局、ふたりに言いくるめられる形でメイも討論会に参加することになりました。
もちろん、原爆否定派です。
メイは六月から八月までの三ヶ月間、睡眠時間を削って山ほどもある資料や本に目を通したり、図書館で調べ物をしたり、ひたすら動画を見たり、パソコンの前で作業をしたり、それはそれは大変な準備期間を過ごしました。
汗だけでなく涙を流すこともありました。
それだけ、戦争や原爆について調べることは大変なことであり、つらいことでもありました。

第一回の討論会は、八月七日に行われました。
場所は、町の図書館のなかにある小ホール。午後一時に受付が始まって間もなく、百席ほどあるシートはあっという間に満席になり、スタッフたちは追加の椅子を準備をするのに大忙しでした。
舞台の中央には、スタンドマイク付きの演壇があります。
メイたち八人はそのうしろに、左右四人ずつに分かれて座っています。
四人の前に置かれている横長のテーブルには、ケーブルがつながれたパソコンとたくさんの資料が置かれています。うしろのスクリーンには動画や写真が映し出せるようになっています。
ジャスミンによる代表挨拶やメンバー紹介が終わると、いよいよ討論会の始まりです。
回数は、合計四回。
第一回と第二回は原爆肯定派からスタート、残りの第三回と第四回は原爆否定派からのスタートになります。
回ごとに聴衆に投票してもらって勝敗を決めます。
そして、第四回が終わったあとに最終的な勝敗を決定します。

まずは、原爆肯定派のリーダー、ノーマンが演壇に立ちました。
討論が始まります。
ノーマンはまず、原爆投下は正しかったと思っているが原爆そのものを無条件で良いと思っているわけではないということを断っておきました。もちろん、戦争を無条件で肯定しているわけではない、と。
そのうえで、原爆投下は正しかった理由を四回に分けて話していくことになります。
第一回は、そもそも原爆とはどんなものだったのか、武器としての性能などを淡々と説明していきました。主に数字が目立つようにして。
メイには感情的な部分に触れないようにしているように見えました。
しかし、すでに学校で習っているであろう情報でも、数字だけを強調していても、やはりそのすさまじい威力にため息をもらす聴衆はたくさんいました。
そうです、トルーマン大統領もこのすさまじい威力を知っておきながら、悩みに悩んだ末、太平洋戦争を終わらせるために止むを得ず原爆を落としたのだと、平和を実現するために、何百万人以上の日本人とアメリカ人が命を落とす前に、この武器を使用することを決断したのだと、ノーマンは言いました。ぼくらはこの苦渋の決断に感謝するのみです、と。日本が降伏せず、このままずっと戦争を続けて本土決戦などが行われていたら、原爆で亡くなった数よりもっと多くの犠牲者が出た。だから、この決断は正しかったし、原爆投下は肯定します。
そう言って、ノーマンの話は終わりました。

ノーマンが演壇から下り、自分の席に帰ると、ぱっと立ち上がったのは、なんとメイでした。まさかトップバッターがメイとはだれも思わなかったでしょうが、否定派のみんなは応援してくれ、自分たちがついてるから大丈夫だとうなずいてくれました。
メイの主張はこうです。
トルーマン大統領が「戦争を一刻も早く終わらせたくて」広島と長崎に原爆を投下したこと、もうひとつは原爆を使用しなかったら「何百万人以上の日本人とアメリカ人が命を落とすだろう」という点、このふたつが間違っているというものでした。
ひとつめは、原爆投下をしても戦争は終わらなかったことから、原爆投下には戦争を終わらせる効果はなかったと思われます。しかも、大統領はこのことを予想していました。アメリカ、イギリス、ソ連の首脳が集まって、一九四五年七月十七日から八月二日(広島に原爆が投下される四日前)まで行われていたポツダム会談では、第二次世界大戦のあとのヨーロッパの秩序をどのように築いていくかというものを話し合っていたのですが、この会談の初日に、トルーマン大統領はソ連のスターリン書記長から「ソ連は、八月十五日に無条件で対日戦争を始める」と知らされていました。結果的に、この参戦は六日間早まったわけですが、このときに大統領は「ソ連が参戦すれば、日本はいよいよ降伏する」と確信したのです。七月十七日の日記や妻への手紙にもそう書いていました。にもかかわらず、大統領は広島と長崎に原爆を投下した。いったいなぜなのでしょうか。
ふたつめ、トルーマン大統領は原爆を落とさなければ「何百万人以上の日本人とアメリカ人が命を落とすだろう」とは考えていませんでした。大統領は長崎に原爆投下したあと、ラジオで「数多くのアメリカの青年を救うために」原爆を落としたと言っています。大統領が考えていたのは、アメリカの命だけです。そこに日本人の命は含まれていません。ただ、この原爆投下により、あくまで結果的にですが助かった日本人の命もあるのでしょう。もしも本土決戦が行われていたら、自決せねばならない命が多くあったでしょうから。
ひとつ誤解を招かないようにつけくわえておくと、トルーマン大統領がアメリカ人の命だけを考えていたことを批判するつもりはありません。戦争中に、敵国の命を考える大統領はおそらくいないと思います。仮に考えていたとしても、それは口に出していうべきではありません。そんなことを言ったら、戦場で戦っている兵士たちは混乱してしまいます。
ノーマンが言った「何百万人」という数字も実は間違っているということがわかりました。というより、教科書でも資料でも書かれてある数字がバラバラで一貫性がないのです。最初は十万人程度だったのが、時が経つほどにその数は増え、ノーマンの言った「何百万人」という数に落ち着いたのでした。
なので、大統領の決断理由にもその数字にも嘘があることがわかったと思います。
最後に、なぜ大統領は原爆を落としたのか。
それは、「人体実験」だったのではないか、ということです。『トリニティ実験』と名付けられた最初の核実験の結果が届き、完成していた残りの二発をどこかで使ってみたい。最初は無人の沙漠地帯で行ったので、今度はどこかの国のどこかの町で行ってみたい。そう思っていたのではないか。それは、大統領としての野望だったのかもしれません。大統領はつねに国民から尊敬されたい、偉大な大統領だと思われたいという欲望があります。その欲望を果たすために、強いアメリカ・強い大統領を国民や世界に見せつけるために、原爆を落とした。
人体実験だったのではないかと思う根拠は、ひとつは町の選定が原爆による被害の結果をよりあきらかにするために、それまでアメリカ軍から空襲を受けていない場所(広島、長崎、小倉、新潟)が選ばれたということ。
ふたつめは、そもそもなぜ一般市民が暮らしている「都市」を選んだのかということ。もしも、はやく戦争を終わらせたいという目的だったのであれば、あるいはただ単に新兵器の威力を見せつけたいだけだったら、町への投下ではなくて、たとえば東京や富士山の上空で夜間に爆発させてもよかったのではないか。
三つめは、広島だけでなく長崎にも原爆を落としたこと。広島に落とされたものと長崎に落とされたものとでは原料がちがうため、両方とも落としてその効果のちがいを知りたかったのではないか。
アメリカの二発の原爆投下によって亡くなった人たちの大半は、罪もない一般市民でした。投下の年に亡くなった広島の人たちは十四万人。長崎は九万人。当時の人口の約三分の一の人たちが殺されたのです。新兵器の人体実験という目的のために。強いアメリカを見せつけるために。大統領というたったひとりの男の野望のために。罪もない人々が戦争によって、亡くなっています。朝鮮戦争で、ヴェトナム戦争で、湾岸戦争で、今はイラクで、同じことが起こっています。アメリカはそろそろ、罪もない人々を死に追いやる戦争をやめなくてはなりません。そのためにも、わたしたちは原爆投下について今一度、正しい認識を持つ必要があると思います。大統領の決断は、原爆投下は、まちがっていた。

大きな拍手喝采や口笛を聴きながら、メイはほっとしつつ自分の席に戻っていきました。
しかし、拍手の波が引いたとき、会場のなかから野次が飛んできます。
「いい気になるなよ!」
会場には、ざわめきと拍手の余韻が漂っていたから、聞こえなかった人もいたでしょう。しかし、メイには耳に突き刺さって、しばらくの間、抜けませんでした。

「第二次世界大戦中、日本兵に殺された中国人の数は、原爆で死んだ日本人の百倍だったってことを忘れるな!」


(長いので後半の記事につづきを書きたいと思います)
(なるべく早く後半の記事を上げますね!)



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