【SNSと信頼貯金】書くことが億劫になった理由
随分と書くことから離れてしまった。
…って、別にこれまでもこまめに更新はしてなかったけれど。最近はnote以外の媒体も更新頻度が下がっていた。
筆を休めている間、せっかく海外生活しているのだからいろいろ投稿して欲しいという声を多数いただいていた。
毎日がネタの宝庫。私もそのつもりだった。
けれど、SNSで薄ら嫌な気持ちになることがあり、筆から遠のいてしまった。未だ消化不良なんだけれど、とりあえず吐き出してみようと思う。
SNSで薄ら嫌な気持ちになったこと
駐妻はインスタの情報が頼り。お出かけや買い物子育て情報…私もかなり頼りにしている。
渡航前までインスタはやったことなかった。Facebookと似たようなもんかなくらいの感覚で始めた。公開アカウントにしていたけど、圧倒的に「見ているだけ(投稿はしない)」人口が多いということを知らなかった。
他のママさんがシェアしているようなオシャレカフェ情報はアップできないから、かわりにラーメン情報ばかり載せてたら、初対面の人に「あ、インスタのラーメンの人!」と言われた。吹いた。SNSが人格形成の一部を担う時代。ラーメン情報ばかり載せてたら私のことを知らない人は私のことをラーメン大好き小池さんだと認識してしまうのか。結構な衝撃だった。
知り合いが突然「この前の投稿のあれさー」と話をしてきた。しかし、私は彼女のインスタを知らない。公開アカウントにしてたから想定内とは言え、見てるならフォローするなり、いいねするなり、反応してほしいわと思ってしまった。覗き見されてる感じ。
「インスタで●●さんがこんな投稿しててさー」という会話になることがある。これも同様、ちょっと不快感。公開非公開に関わらず、SNSって投稿した時点で赤の他人に知れ渡るリスクがあるんだなと痛感。学校の先生のアカウントを見つける→それを子供に見せる→子供が学校で言いふらす、というケースもあったらしい。恐怖。
書き出すとキリがないし、もっと衝撃的な出来事もあったんだけど、私の中で「薄ら嫌な気持ち」になる出来事がいくつか起きて、SNSから遠のいてしまった。
タイのこと知りたいから投稿楽しみにしてる!そう言ってくれる友達にはどんどん伝えたい。
でも、読んだ内容を他人に言いふらしたり、陰で嘲笑したり、そんなことする可能性のある人には、正直見せたくない。
公開範囲を設定するとか色々方法はあるだろうけど、この人には見せる、この人には見せない、その作業が苦痛。
発信したい気持ちと、怖い気持ち。そんなこんなで気後れして今日にいたった。
SNSの信頼貯金
公開範囲の設定が苦痛と書いたけれど、その作業はまさに、相手との信頼関係を確認する作業だと思う。
投稿を見てほしいのは、信頼貯金がある人。
見せたくない相手は、信頼貯金がない人。
(信頼貯金については過去記事参照)
SNSの世界にも信頼貯金が存在するという気づき。会った回数も関係性もバラバラ。普段接している人以上に、お互いの残高状況が見えにくいから、SNSの信頼貯金は厄介だ。
直接お会いした方としか繋がっていないFacebookには、このnoteよりは頻繁に日々の気づきなどをアップしている。私の拙い考察に反応してくれるととても嬉しい。会った回数は少なくても、日々のSNSのやりとりで信頼貯金がどんどん増えている人もいる。
直接の交流がなくても、その人の投稿を見るだけで信頼が増していくこともある。投稿内容から誠実さや好感が感じられるからだろう。(下記の5)
しかしここで厄介な点がもう1つ。投稿を読んで好感を持つ、つまり信頼残高が増えたとしても、それは情報の受け手側のみ。その投稿になんらかの反応を示さない限り、相手側には受け手と同額の貯金は貯まっていない、というのは失念しがちだ。一方的に見てる、知ってる、それで相手との信頼関係ができている気がするけれど、それは何もアクションを起こしていない場合、相手には一切伝わっていない。
それでも発信する理由
起業家でもなんでもないからセルフブランディングのために発信を頑張る必要はどこにもない。それでも発信したいと思う私の根源には何があるのか。それは「面白かった」「刺激を受けた」などなんらかの「反応」が得られた経験だ。
薄ら嫌な気持ちになることはあれど、これからもSNSは使うだろうし、発信もしていくつもりだ。信頼貯金ついでに『7つの習慣』に絡めて書くなら、発信こそが「影響の輪を広げる」行為に他ならないからだ。
ただし、そこに見えない信頼貯金が存在していることを、意識していきたいと思う。私が傷つくことはあったとしても、私は誰かを傷つけたくはない。
そして言わずもがなこのご時世だし、必要最低限のリスク(子供に関する投稿など)も注意していかねばならない。
SNSが「最近のもの」という感覚である昭和世代の私からすれば、もう心底「めんどくせぇ」の一言に尽きるんだけれど、子供たちはSNSが当たり前に存在している世界を生きていくわけだ。私も戸惑いつつ、その世界を漂っていたい。