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内田樹「街場の文体論」

愛がない

最近 言葉に対して人々の愛が足りないよと思ってた
読む側も そして 書く側も

たくさんの人がいろんなところでいろんな文章を書いているのに
せっかく書かれたものでも 読んでて何がおもしろいのかわからず心に響かないものが多い

言葉はただ情報伝達や行動記録の道具であり 言葉は使い捨てるものである
そんなふうに扱っている人が多いように思うのだ

もちろん それも間違いじゃない
それも言葉の持つ機能や性質のひとつだし
いかに速く正確に大量の情報をやり取りできるかが重要な世の中で 言葉の扱いが変わっていくのも自然なことかもしれない

仕方ないってわかってても 私の中には何だか小さな違和感があったり

でも この内田樹さんの「街場の文体論」を読んで もやもやが晴れた感じ


言葉にも「命のある言葉」と「命のない言葉」がある。書き手や読み手の「生きる知恵と力」を高める言葉があり、生きる力を損なう言葉がある。その違いを熟知して、生命力が感じられる言葉だけを選択的にたどってゆく能力は、これからの時代を生き延びるためには必須のものだと思います。

命のある言葉というのは 「生きた言葉」であり 読み手に対する「敬意のある言葉」で 
そういう言葉こそが相手に「届く言葉」なんだそう

情理を尽くして語るという態度が読み手に対する敬意の表現であり、同時に言語における創造性の実質だと思うんです。
読み手に対する敬意と愛は技術でもあるし、心がけでもある。「他者」とのコミュニケーションという言語活動の本質にかかわる知見にも深くかかわってきます。

今私たちの周りで行き交っている言葉の多くは「届く言葉」ではなく
ただ「自分を尊敬しろ」と命じる言葉でしかないんだそう

修辞的で論理的で 充分に意味のある立派なことを言っているけど
でも悲しいほどにその文章からは 私に敬意を示せと読みとれる
そしてその敬意にふさわしい威信やポストや財貨を 私のもとに運んでくるようにという 隠されたメッセージが透けて見えたりもする

そこには読み手に対する敬意なんかまるでない

書きながら、自分が何を言いたいのか、何を知っているのかを発見する。書き始める前に頭の中に書くことがそろってるわけではない。
自分の中に自分とは違う言葉を使って生きているものがいて、その人に向かって語りかけている、言葉はいちばん生き生きとしてくる。言葉を作りだすというのは、そのようなうちなる他者との協同作業なんです。

誰かが書いたものや有用な情報の大事な部分だけを切り取って貼り付けるコピペは とても便利な方法ではあると思う

でもそれは「生きた言葉」にはならないということだろう


私たちは文章を読むときに ただ情報を取り入れるためだけに読んでいるわけではない
楽しいとか悲しいとか 喜びとか怒りとか 自分の中に湧きあがってくる感情や 他人の感情を共有して どきどきわくわくしたいから読んでいる

命のある言葉を楽しんでいるんだろうと思う

自分自身の言葉で綴られた考えや想い それを伝えようという熱意 
相手のことも知りたいという欲求 そして読み手への敬意

私も 命ある言葉を使えるように 心がけていようと思う

(2013.10.17)

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