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まぼろしの五色不動【7】目青不動の流転

(1)不動の旧跡を訪ね歩く

 さて、残るは目青不動である。目青不動とされたものは二つある。

・明治14年、横浜野毛新田に安置されたと報じられた目青不動。成田山延命院の野毛山不動尊のことであろうと思われるが、建立時期は合致するものの、目青不動と呼ばれたという資料はほかに見つからない。
・現在、世田谷区三軒茶屋にある教学院の目青不動。

 横浜野毛山の不動尊についてはすでに記したとおり、明治初期の報道が一件あるだけで、その後、五色不動と関連づけられて呼ばれたことはない。現在の「天海五色不動説」にも合わないため、まったく取り上げられていないのが現状である。
 おそらく、話題作りのために、青い目の異国人の地に目青不動とはしゃれている、というわけでアピールされかけたが、見事にすべってしまった、ということなのだろう。観光地作りに失敗したのだと思われる。

 さて、もう一つの教学院目青不動である。実は、私の五色不動の探索で最初に訪問したのは、目白不動と目青不動だった。この調査を開始した当初、実は、加門七海氏のように五色不動を結んで、何か形が出ないか、その配置には何か意味があるのではないか、と考えていた。ところが、目白・目赤・目青は場所を移転していることがわかったのである。特に目白は戦災で移動している。それ以前の場所、つまり江戸時代の目白不動の場所を特定しなければ、「天海が意図した五色不動」の場所は確定できないと考えたのだ。

 古地図には古い目白不動の場所が記されている。そこで、当時は近くの高田馬場に住んでいたこともあって、実際に関口の旧目白不動の跡地に行ってみたのだった。近所には歴史の由来を記した区の解説板もあり、神田川沿いの崖の上にあった当時の目白不動のにぎわいを偲ぶことができた。

 目赤不動の移転距離は小さいし、移転も江戸時代中であることから後回しにして、次に訪れてみたのが目青不動だった。実は、教学院はもともと青山にあったものが移転し、不動像はさらに別の場所にあったものが教学院に移されたものであることがわかった。もし、目青不動の場所を「世田谷区三軒茶屋駅前」としてポイントしてしまうと、江戸時代の実態からかけ離れたものになってしまう――。そこで、実際に江戸切絵図をもとに移転前の場所を訪ねてみるなど調査を重ねるうち、「もしかしたら、目青不動は江戸時代にはなかったんじゃないか?」と考えるようになったのだった。

 江戸切絵図というのは最近は愛好者も増えているが、要するに江戸時代の市街マップである。大屋敷には何の屋敷か書かれているし、寺院なども細かく描かれている。目青不動の最初の場所を突き止めるには、この切絵図が不可欠だった。

(2)麻布谷町の観行寺

この像はもと麻布谷町の観行寺の本尊であったが、同寺が廃寺になったので、明治一五年青山南町にあった教学院に移され「青山のお閻魔様」といわれていた。(竹内秀雄著・トップス改訂『東京史跡ガイド13世田谷区史跡散歩』学生社)


 目青不動は、もともと教学院にはなく、麻布谷町の観行寺にあったという。この観行寺という寺院はそれほど大きな寺ではなかったらしく、文献にもほとんど痕跡が残っていない。

 昭和三十五年刊行の『港区史』下巻には、「廃絶転出寺院一覧表」の中に、「麻布地区 真宗 観行寺(谷町) 時期不明」と書かれている。時期不明とあるが、『世田谷区史跡散歩』の記述によれば、廃寺になったのは明治十五年かその少し前ごろだったと考えられる。少なくとも、観行寺という寺が麻布谷町にあったことは裏付けられたといっていいだろう。

 では、麻布谷町とはどこなのか。同じく『港区史』上巻に「麻布谷町 市兵衛町と今井町との台地間にある文字どおり谷の町であり、江戸時代には麻布谷町、麻布今井谷町、麻布西光寺門前などの町屋があり、町屋の付近は御先手組同心大縄地その他の武家屋敷地であった。道源寺坂、三谷(さんや)坂、難歩(南部)坂」とあり、下巻には「谷町=今井谷村、今井谷町。現、赤坂二丁目13番、六本木一丁目1~3番、六本木二丁目1~2番の一部」と書かれている。
 かなり絞り込まれてきた。今も首都高速二号目黒線と三号渋谷線の合流地点「谷町ジャンクション」として、麻布谷町の地名が残っている。

 しかし、切絵図で見たところ、不思議なことがわかった。
 幕末にあたる1854年の地図「赤坂・今井辺図」で探してみると、確かに「勧行寺」が存在している。ところが、それからわずかに前(1850~53年)の「尾張屋版切絵図」では、同じところに「正善寺」と書いてあるのだ。これは、この時期に正善寺→勧行寺と名前を変えたとしか考えられない。

 この寺が改名していたことについては、他の資料もある。昭和五十年に書かれた岡本靖彦氏の「五色不動存疑」という文章には、教学院の住職からの手紙の引用として、次のように記されている。

三 目青不動はもと麻布谷町五十一に在つた「勧行寺」の本尊で、明治十五年同寺が廃寺になつた際、教学院に合併された。勧行寺は旧くは町名が麻布三谷町といつたので、三谷山源理院正善寺と称した。

 麻布谷町には三谷坂の地名があったという。そこで調べてみると、『江戸砂子』に「妙祐山正善寺 上野末 三ツヤ。(天台宗)」とある。「三ツヤ」は「三谷(さんや)」のことだと考えれば、少々名称が違うものの、辻褄はあっている。確かに正善寺は麻布三谷にあった。
 正善寺は天台宗だが、勧行寺は真言宗だったという。しかし、不動像が慈覚大師円仁の作と言い伝えられていること、このあと統合される教学院も天台宗であることから考えると、これは実は真言宗ではなく天台宗だったのではないか、とも思われる。

 この観行寺=正善寺のあった場所は、現在、全日空ホテルやアメリカ大使館、泉ガーデンタワーなどに囲まれたアークタワーズ・イーストになっている。サントリーホールの横手、スペイン大使館の向かいで、六本木一丁目二番に当たる場所だ。目青不動はもともと、赤坂・六本木の高層ビルの谷間に鎮座していたのである。

 しかし、辛うじて寺の名前が載っている程度のマイナーな寺院で、不動尊像があったことすら記録されていない。これが江戸時代に「目青不動」と呼ばれていたという証拠は何もないのである。

(3)移転をくり返す教学院

 今の目青不動が置かれているのは教学院というのが通称となっているが、これも本所にあった目黄不動と同じ「最勝寺」という名前であるという。そして、この最勝寺も移転を繰り返しているのである。

 教学院は、号を竹園山最勝寺と称し、天台宗に属する。慶長九年(一六〇四)玄応大和尚の開基になり、江戸城内紅葉山にあったと伝えられ、のち赤坂三分坂に移った。さらに寛永八年(一六三一)、第五世岸能法師のとき青山に移ったもので、二度の火災により記録を失い、くわしいことはわからない。(「世田谷区歴史散歩」)

 江戸城内紅葉山は、現在の皇居のあたりにあった。赤坂三分坂に移ったという話については詳細がよくわからないが、観行寺=正善寺と近いところにあったようである。もしかしたら、この時期に教学院と観行寺=正善寺が親しい関係になったということも考えられる。

 青山に移ってからの青山教学院は、切絵図にも挿し絵入りで載っている。今の外苑前駅から出てすぐ、外苑前郵便局やメトロ会館のある一角だ。今も駅前に残る梅窓院というお寺の隣の敷地であったことから、場所の特定は容易である。

 そして、明治15年に観行寺の不動像が移ってきて、明治41年に世田谷三軒茶屋に移転するわけである。この間の経歴をまとめると、以下のようになる。

・慶長9年(1604) 玄応大和尚開基。紅葉山にあった。麹町山王成琳寺の末寺
・赤坂三部坂に移動
・寛永8年(1631)第五世岸能法師のとき青山に移る(梅窓院の隣、青山墓地の北)
・二度の大火により記録焼失
・貞享5年(1687)小田原城主大久保加賀守忠真の菩提寺となり、繁栄。
・東叡山輪王寺の直系の末寺となる
・大寺の格式となり、延暦寺の末寺となる。
・嘉永3~6年(1850~53)尾張屋版切絵図に正善寺
・嘉永7年(1854)赤坂・今井辺図に勧行寺
・明治15年(1882年)麻布谷町観行寺の不動像が教学院に移された。「青山のお閻魔様」と呼ばれた
・明治41年(1908年)第17世権僧正寛葆大和尚の代に、世田谷太子堂に移転
・明治44年(1911年)目青不動として初出

 さて、ここで不思議なことが一つある。明治15年、不動像が移ってきたとき、「青山のお閻魔様」として親しまれたというのである。不動明王ではなく、閻魔なのである。いったい、これはどういうことなのか。

(4)教学院に不動はいつ現われたのか

 世田谷区寺院台帳(東京都世田谷区教育委員会(世田谷区立郷土資料館)が昭和59年に復刻)によると、次のような記載がある。

   寺院明細帳(七)荏原郡
東京府荏原郡世田谷村大字太子堂四百六十八番地
     延暦寺末
 天台宗        教学院
一 本尊 阿弥陀如来
一 由緒 慶長九年法印玄応開基ス、明治四十年四月十
     五日東京府ノ許可ヲ得、赤坂区青山南町四丁
     目ニ当地ヨリ現今ノ処ニ移ル、
一 本堂 間口六間 奥行六間
一 庫裡 九十八坪八合一勺
一 境内 二千八坪二合八勺 民有地
一 境内仏堂 一宇
   閻魔堂 十五坪二合八勺
    本尊 閻魔王
    由緒 不詳

 移転の許可を得たのは明治40年のことだとわかる。また、開基・玄応和尚についても、他の資料と一致している。ちなみに、大正12年4月には世田谷村が町になっているので、それ以前の記述であることも証明される。
 問題は、ここに不動尊のことがまるで書かれていないことだ。青山時代には「青山のお閻魔様」と呼ばれ、この世田谷村に移ってからも「本尊 阿弥陀如来」「閻魔堂 本尊・閻魔王」とあるだけで不動明王のことが出てこない。本当に「不動」なのか、という疑問さえわいてくるほどである。「この不動堂は一名閻魔堂ともいわれている」とあるから、もともと閻魔堂で不動明王はおまけだったのに、目青不動で売り出したものだから不動ということになったのではないか、とも考えてしまう。

 そもそも、この教学院で主張している縁起が信用できない。
 教学院で配布している縁起書によれば、

創建は応長元年(1311年)で、江戸城紅葉山にあったという。開基は法印玄応大和尚である。その後大田道潅の江戸城築城により麹町貝塚に移され、また赤坂三分坂に移り、慶長九年には青山南町に三千坪余りの土地を拝領してみたび移転した。

 とある。江戸城築城の前なのに、「江戸城」紅葉山はないだろう。他の資料とつき合わせてみると、どうしてもつじつまが合わない。

・応長元年(1311)江戸城紅葉山、法印玄応大和尚開基(教学院主張)
 慶長9年(1604) 玄応大和尚開基、江戸城内紅葉山(一般資料)
・(1457)江戸城築城により麹町貝塚へ(教学院主張)
・赤坂三部坂に移動(共通)
・慶長9年(1604)青山(教学院主張)
 寛永8年(1631)第五世岸能法師のとき青山(一般資料)

 どうも年代にサバを読んでいるようなのである。「その後太政官布達により、明治四十二年より三カ年を要して世田谷の現在地に移転し現在に至っている」ともあるが、明治40年に許可が下り、明治41年には移転しているという情報もある。どうもこの寺の縁起の年代は信用できない。とりあえず時代は無視して読み進めると、

青山南町は百人町ともいわれ、百人の同心が住んでいたという。この同心百人のうち37人が教学院の檀家に、63人が信者になり念仏講を結んでいた。この講の維持に一人三合宛の米を奉納していたので「三合山」とも呼ばれ親しまれていた。この佛米拠出により閻魔堂(現在の不動堂)が建立され、双盤念仏が盛んに行なわれていた。

 だいたい、百人町といって100人ぴったり住んでいるというのも怪しすぎる。それでも、当時は閻魔堂だったものが今、不動堂と名を変えているということがわかる。
 さらに、その怪しい縁起にはこう書いてある。

 目青不動は麻布谷町にあったという観行寺の本尊であったものが、同寺の廃寺にともない教学院に遷し奉られたものである。華厳経巻七・賢首菩薩第八に説かれるところの天上界と地上界の間にたなびく青い雲の色に基ずく不動尊であることから、天と地の連絡をしてくださるといわれ、いつしか「縁結びの不動」として信仰を集めている。
 目青不動尊は慈覚大師円仁ご自作の尊像であり、秘佛としてお厨子に納められており公開されていない。お前立の不動尊は、座高一メートル余りの青銅製で、寛永十一年(一六四二)正月十一日の銘がある。丸顔で上下の牙歯がなく、微笑を湛えている様にも見えるえくぼが女性的である。

 慈覚大師円仁というのも眉唾であるし、青い雲の色に基づくというのも「五色不動の伝説を作り上げるときに思いついたこと」ではないかと思われ、どうも目青不動は根拠がはっきりしない。
 少なくとも明らかなのは、青山時代には不動より「閻魔」で有名であったこと。そして、青山から三軒茶屋に移ってから(つまり、明治41年以降、他の文献で明記される明治44年までの間に)、閻魔堂がいつしか不動堂となり、また「目青不動」として知られるようになった、ということである。
 推測するに、「青」山にあったことが目「青」と名付けられるに至った理由ではないだろうか。

(初出:2006年9月11日)


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