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まぼろしの五色不動【6】増殖する目黄不動

(1)三ノ輪・永久寺の鼠不動

 私の知る限り、目黄不動は四つある。すでに述べたものも含めて、列挙してみよう。

・浅草勝蔵院にあった明暦不動(江戸時代にメキ不動と呼ばれた可能性あり)
・台東区三ノ輪の永久寺
・江戸川区平井の最勝寺(不動尊像はもと東栄寺にあった)
・渋谷区神宮前の龍厳寺

 明暦不動は今はない。一般には永久寺と最勝寺が「二つの目黄不動」として知られている。最近になって、龍厳寺の名前が浮上してきた。
 そこで、永久寺から一つずつ順番に見ていくとしよう。

東京日日新聞 明治14年1月27日
 目黒・目白・目赤の三不動は、昔から府下にあるが、それに対して、目黄を昨年下谷坂下町へ新設した。

 再度の引用であるが、目黄不動は明治十三年に下谷に「新設」された。それ以前は目黄不動でなかった、と明記してあるわけである。

 安永二年(1773年)のものと思われる『新編江戸志』には、寺伝からとして次のように書かれている。

  天正年間(1573~1592年)開基 真言宗空蔵院
  禅宗に改宗
  永久寺と改名
  日蓮宗に改宗、蓮基寺と号を変える
  寛永以降、将軍の命で天台宗に改宗

 なかなか転変の激しい寺だ。

 また、この『新編江戸志』には不動尊像があることが書かれているが、あくまでも「護摩堂本尊不動」とのみ書かれており、「目黄不動」ではない。

 『台東区史跡散歩』を参考にして、もう一つの言い伝えを紹介しよう。

 むかし、山野嘉右衛門永久という首切り役人がいた。山野永久は、その罪人たちの怨霊供養のために寺院を再建し、門前地を寄付することにした。これが寛文七年(1667年)六月のことである。そして、彼の名前をとって「永久寺」と名付けられた。また、寺宝として、永久の用いた刀・槍が保存されているという。

 『新編江戸志』では寛永以前に永久寺という名前だったことがあるのだが、その後、また永久という名前の首切り役人と縁ができたというのだろうか。なんともあやふやな話である。

 天保九年(1838年)の『東都歳事記』正月二十八日の「不動参り」の項目には、「下谷通り新町永久寺(開帳)」とある。確かに永久寺に不動尊はその当時からあったようだ。だが、それが当時「目黄不動」と呼ばれていなかったということも明らかだ、ということはすでに述べたとおりである。

 この永久寺の不動像は、慈覚大師作と伝えられる。目黒不動と同じであるが、信憑性は低い。また、鼠がすくんだために「鼠不動」と呼ばれるという。おそらく、こちらが本名なのであろう。
 結局、三ノ輪・永久寺の「目黄不動」は、明治十三年以前にはそう呼ばれていた形跡がまったく見当たらないのである。

(2)最勝寺と良弁の不動像

 現存する第二の目黄不動、それは平井・最勝寺にある。その歴史はなかなか複雑である。これも時系列順にたどってみるとしよう。

 時代は一気に奈良時代にさかのぼる。奈良・春日大社の前に、大きな杉があった。そこに一羽の金色の大ワシが舞い降りた。その大ワシは足になにものかをつかんでいた。そして、それを杉の木に置いていった。
 それを見つけたのが、春日大社にお参りに来ていた名僧・義淵だった。法相宗の僧侶で、吉野に龍門寺を開き、義淵僧正と呼ばれた人物である。また、岡寺を開き、聖武天皇から岡連(おかのむらじ)の姓を授けられていた。
 その義淵が杉の木を見ると、そこにはまだ幼い赤ん坊がいた。大ワシがどこかからさらってきて、この杉の木まで連れてきたのだ。義淵は赤ん坊を抱き下ろし、そして育てることにした。
 この赤ん坊は、高僧から法相宗の教えを学びつつ育ち、また新羅僧・審祥から華厳宗の教えを学んだ。そして、通称は金鐘行者、金鷲菩薩、最もよく知られる名としては良弁と呼ばれる。
 良弁の事跡として有名なのは、奈良の大仏の建立に大いに協力したということである。天平勝宝四年(752年)、初代の東大寺別当となった。また、唐僧・鑑真が中国から苦労の末に来日し、東大寺に来たときにも迎えている。
 聖武天皇が亡くなったときには、大僧都に任命され、仏教界のトップに躍り出ることとなった。

 さて、この良弁僧都が東国を訪れた、という伝説がある。おそらくそれは事実ではないと思われるのだが、とりあえず伝説ということでおとなしく受け入れておこう。天平年間というから、729~766年のこと、隅田川のほとりの一本の大樹の陰に宿って休んでいると、夢に不動明王が現れた。
「我が姿を三体刻み、一体をここに安置せよ」
と霊告されたため、良弁自らこの御姿を刻んで本尊とし、堂舎を建立したという。
 相模国の大山不動(神奈川県丹沢山地の雨降山大山寺)はこのうちの一体である。
 そして、このとき作られた不動尊像の一つが、今、平井・最勝寺に伝わる「目黄不動」なのだという。

 もともと、この「木造不動明王坐像」は、東栄寺という寺にまつられていた。しかし、明治初期、東栄寺が廃寺になり、最勝寺に移されたのだともいわれている。
 一方で、最勝寺の建立は、目黒不動と同じ円仁(慈覚大師)と関わると伝えられている。

 最勝寺は、牛島神社の別当寺である。
 今は神社は神道、寺は仏教と明らかに別々になっているが、江戸時代以前はごっちゃになっているものが多かった。別当寺とは、神社の祭神が解脱を得られるよう、境内に置かれた寺である。したがって、最勝寺は牛島神社の中にある寺ということになる。
 この牛島神社の最初は、「慈覚大師が須佐之男命を郷土の守護神として迎えた」という説と、「慈覚大師に老翁が“わたしのために神社を建立しなさい。もし国土に争乱があれば、首に牛頭を載せ、悪魔降伏の形相を現わして、天下の安全の守護をしよう”と託宣した」という説がある。
 もっとも、この二説は矛盾しない。牛頭天王は、京都の八坂神社にもまつられているが、これはスサノオと同体ともされる神で、疫病と深い関わりがある。だから、牛頭天王が老翁の姿で慈覚大師の前に現われ、そこで牛頭天王=スサノオを土地の守護神として祀った、というストーリーがもともとあったと考えられるからである。
 この牛頭天王をまつる牛島神社と同じ境内にあった寺、それが最勝寺で、そこに良弁作の不動明王像が置かれていたというのである。
 ちなみに、神社と寺が分離されたのは、明治維新後の「神仏分離令」以降である。
 江戸末期の東都歳事記には、牛ノ御前王子権現祭礼のことが載っている。現代語訳しておこう。

九月
 十五日 ○牛ノ御前王子権現祭礼(別当、最勝寺。丑・卯・巳・未・酉・亥年、隔年に行なう。牛島の惣鎮守である。文政十亥年(1827)までは神輿二基。十三日より北本所石原新町の御旅所へ神幸していたが、この日には帰輿する。産子の町数が多いため、三日間神輿を渡していたが、同年より渡ることがない。出し煉物は安永八年(1779)より出たことがない。

 ここで興味深いのは、またもや「家光」の「猟」と「寄進」が関係していることだ。目黒、目白、目赤だけでなく、目黄不動最勝寺/牛島神社もそうだとなると、因縁めいたものを感じざるを得ない。だからといって目黄不動が家光公によって選ばれたということにはならないが。

(3)最勝寺か東栄寺か

 ここで最勝寺と関係の深い牛島神社の由来も含めて、最勝寺・牛島神社・東栄寺の経歴を年表にまとめておこう。

・天平年間(729~749)良弁僧都が東国巡りのときに不動明王を彫刻。
・貞観2年(860年)慈覚大師(円仁)が最勝寺建立、牛島神社勧請。
・元慶元年(877年)円仁の高弟・良本阿闍梨が最勝寺を中興。
・治承4年(1180年)9月、千葉胤常が牛島神社に祈願し、源頼朝の軍勢が渡河できた。
・養和元年(1181年)頼朝が社殿を寄進
・天文7年(1538年)後奈良院から「牛御前社」の勅号を賜る
・永禄11年(1568年)11月、関東管領・北条氏直が大道寺駿河守景秀に命じて神領を寄進
・江戸 最勝寺が牛島神社の別当寺となり、管理する。
・寛永 家光公が境内に遊猟の休憩の仮殿を造り、御殿山と称する。家光は祭礼神輿渡御の旅所(本所石原新町)の土地を寄進
・享保17年(1732年)江戸砂子に「最勝寺の不動明王」記載あり
・天保7年(1836年)江戸名所図絵に「最勝寺の不動明王」記載あり
・明治初期? 末寺の東栄寺が廃寺となり、不動尊が最勝寺に移される
・明治初期 廃仏毀釈のため、牛島神社が最勝寺から独立する
・大正2年(1913年)区画整理のため最勝寺が本所から平井に移転。
・昭和7年 隅田公園建設のため牛島神社が隅田公園の北へ移転

 こうしていくつかの資料をまとめてみると、少々矛盾が見られる。というのは、江戸時代の文献では「最勝寺の不動明王」とあるのに、昭和以降の資料には「明治末に東栄寺から最勝寺に不動尊が移される」と書かれているのである。
 『江戸名所図絵』巻七の記述を現代語訳してみるとこのようになる。

牛宝山最勝寺 明王院と号す。同所表町にあり。天台宗にして、東叡山に属す。本尊不動明王の像は、良弁僧都の作である。当寺は牛御前の別当寺にして、貞観二年庚辰、慈覚大師が草創し、良本阿闍梨が開山した。寛永年間、大樹(=将軍家光)がこのあたりでご遊猟されたころ、しばしばこの寺へお越しになったので、そのころは仮の御殿などを設置していたという。今も「御殿跡」という場所に山王権現を祀っている。

 この記述によると、良弁の不動明王は明らかに最勝寺にある。
 これに先立つ『江戸砂子温故名跡誌』巻之六にも「△不動明王 良弁僧正の作」とあり、江戸時代の最勝寺の本尊が不動明王であったことは間違いなさそうだ。

 一方、昭和六年の『本所区史』では、この不動明王が最勝寺になかったと記されている。「境内に鎮座せる不動尊は府下五色不動の一なる目黄不動である。此不動尊はもと末寺東栄寺に在ったが、同寺廃するに及んでこゝに移した」と書かれているのである。当時は東京都ではなく東京府だったので、「府下」といえば東京ということだ。これによると、不動尊はもともと末寺東栄寺にあったものということになり、江戸時代の「本尊不動明王」については書かれていない。
 東洋文庫版『東都歳時記』の注釈にも同様に東栄寺のことが書かれている。

 さらに、この本所区史の続きにはこう書かれている。
「其の他昔日牛御前の本尊であった大日像及び大黒の像があり、寛永の頃将軍家光公境内に休憩の仮殿を造ったことがあったので御殿山と唱へ大樹があった。大正の初め南葛飾郡下平井に移転した」
 これによると、当時の本尊は大日如来・大黒天であったというが、これは江戸時代の記述とうまくあわない。また、「大樹があった」というのは、江戸名所図絵で「大樹」という言葉が書かれているのに対応しているようにも思えるが、大樹とは将軍のことである。もしかしたら本当に大樹があったかもしれないが、元の資料を誤読している可能性もある。

 これについて、つじつまを合わせようとするならば、以下のパターンが考えられる。
(a) 本所区史・東都歳時記の注が誤り。本尊不動明王はずっと最勝寺にあった。
(b) 江戸時代にも不動明王は東栄寺にあったが、東栄寺は末寺なので、最勝寺にあるものと書かれた。……このパターンは無理がある。末寺にあるなら末寺の名前が記されるはずだ。最勝寺の本尊をさしおいて、なぜ末寺の本尊を最勝寺の本尊として記すのか。
(c) 『江戸名所図絵』より後、『本所区史』までの間に、不動明王は最勝寺から一度末寺の東栄寺に移され、再び最勝寺に戻された。
(d) 最勝寺にも東栄寺にも良弁作の不動明王像があった。江戸末期以降に最勝寺の不動明王像が失われ、東栄寺のものが移された。
 最も自然なのは(a)のパターンだと思うのだが、真相は明らかではない。

(4)三つの目黄不動年表

 一つだけはっきりと言えることがある。それは、江戸時代には「良弁作になる最勝寺の本尊不動尊」は存在したが、「目黄不動」とは呼ばれていなかったということだ。これは『江戸砂子温故名跡誌』や『江戸名所図絵』の記載からも明らかである。
 江戸時代に目黄不動はなかった。いや、浅草にあった明暦不動が目黄不動と呼ばれたことはあったが、それは現在有名な二つの目黄不動のどちらとも関係がない。そして、目黒・目白・目赤とのセットで目黄不動が語られたこともなかったのである。

 もう一度、三つの目黄不動についての詳細をまとめておこう。便宜上、
A=浅草勝蔵院の目黄不動(明暦不動)
M=三ノ輪永久寺の目黄不動(鼠不動)
S=本所最勝寺の目黄不動(良弁作の不動)
とマークをつけておく。

【平安~室町】
・天平年間(729~749) S 良弁僧都が東国巡りのときに不動明王を彫刻。
・860年 S 慈覚大師(円仁)が最勝寺建立、牛島神社勧請。
・877年 S 円仁の高弟・良本阿闍梨が最勝寺を中興。
・1180年 S 9月、千葉胤常が牛島神社に祈願し、源頼朝の軍勢が渡河できた。
・1181年 S 頼朝が社殿を寄進
・1568年 S 11月、関東管領・北条氏直が大道寺駿河守景秀に命じて神領を寄進
・1538年 S 後奈良院から「牛御前社」の勅号を賜る

【桃山時代~江戸初期】
・天正年間(1573~1592年) M 真言宗空蔵院が開かれる。その後、禅宗に改宗
・寛永以前 M 空蔵院、永久寺と改名。その後、日蓮宗に改宗、蓮基寺と号を変える
・寛永以前 S 最勝寺が牛島神社の別当寺となり、管理する。
・寛永期 S 家光公が境内に遊猟の休憩の仮殿を造り、御殿山と称する。家光は祭礼神輿渡御の旅所(本所石原新町)の土地を寄進
・寛永以降 M 永久寺、将軍の命で天台宗に改宗
・1657年 A 明暦三年正月十九日の火事。明暦不動の名の由来。

【江戸中期~後期】
・1732年 S 江戸砂子に「最勝寺の不動明王」記載あり
・1741年 A 『夏山雑談』に浅草勝蔵院の目黄不動と書かれる。
・1807年 A 『浅草寺志』に浅草勝蔵院の明暦不動の詳しい由来。
・1813年 A 『浅草寺誌』に浅草勝蔵院の不動とだけ記される。
・1825年 A 幕府提出文書に勝蔵院本尊は目黄不動?
・1836年 S 江戸名所図絵に「最勝寺の不動明王」記載あり

【明治以降】
・明治初期? S 末寺の東栄寺が廃寺となり、不動尊が最勝寺に移される?
・明治初期 S 廃仏毀釈のため、牛島神社が最勝寺から独立する
・1880年 M この年、下谷に目黄不動が「新設」されたという新聞記事
・1911年 MS 『東京年中行事』に永久寺と最勝寺が「目黄不動」と明記される
・1913年 S 区画整理のため最勝寺が本所から平井に移転。
・1932年 S 隅田公園建設のため牛島神社が隅田公園の北へ移転
・平成 龍厳寺も目黄不動という説が掲載され始める

 最後の龍厳寺についての情報を添えておこう。
 あまりメジャーではないが、最近になって、渋谷・神宮前の竜厳寺が第3の目黄不動といわれるようになった。ただし、一般公開されていないこともあって、あまり資料もない。
 『豊多摩群誌』と龍厳寺の社伝によれば、源義家が奥州征伐のときに渋谷城にとどまり、ここで軍勢を揃えた。龍厳寺の境内には「義家の腰掛け石」と言う大石があった。
 現在は臨済宗南禅寺派。義家の時代に臨済宗(禅宗)は伝わっていないし、不動明王を禅宗が祀るというのもよくわからないので、候補としては弱いように思われる。現在地は渋谷区神宮前2-3-8である。

 こうしてみると、事実として、以下のことは断定できるだろう。
・江戸時代に目黄不動と呼ばれた可能性があるのは、浅草勝蔵院の明暦不動のみであるが、これは現在に伝わっていない。
・永久寺の目黄不動は1880年(明治13年)に新設された可能性がある。
・それから約30年の間に、最勝寺も目黄不動に加わった。
 つまり、目黄不動は天海僧正とまったく関係がないことが明らかなのである。

(初出:2006年9月10日)


➡ まぼろしの五色不動【7】目青不動の流転
⇦ まぼろしの五色不動【5】江戸時代、五色不動はなかった

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