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まぼろしの五色不動【8完】五色不動伝説の誕生

(1)五色不動の実態

 以上の内容をまとめると、以下のようになる。

目黒不動 古来、不動尊像で有名。家光の鷹狩りと関連する説話がある。
目白不動 家光が鷹狩りのときに目白と名付けたという説がある。
目赤不動 伊賀の赤目に由来する不動像を家光が目赤と改めさせたという。
目黄不動(浅草勝蔵院明暦不動)江戸時代中期にメキ不動と呼ばれた可能性があるが、現在には伝わらない。
目黄不動(三ノ輪永久寺鼠不動)目黄不動の名は明治13年に新設された可能性が高い
目黄不動(本所最勝寺)明治43年までに目黄不動に加わる。家光が鷹狩りでよく立ち寄ったという。
目黄不動(龍厳寺)平成に目黄不動に加わる
目青不動(横浜野毛新田)明治14年に安置されたと報じられたきり
目青不動(教学院)ここに目青不動があるとされたのは明治44年が初出

・1662 江戸名所記……目黒・目白が記載
・1713 和漢三才図絵…目黒・目白・目赤が記載
・1741 夏山雑談………目黒・目白・目赤・目青(・目黄)の記載があるが、その後の文献ではまた三色に戻る
・1881 東京日日新聞……「三不動」+目黄(1880新設)+目青(横浜に新設)の記載
・1904 東京明覧……「三不動」のみ記載
・1911 東京年中行事……目黒・目白・目赤・目青・目黄(二つ)の名称。ただし総称として「五色不動」とはまだ呼ばれていない。
・1919 武蔵野……「五色不動」の初出

 繰り返しになるが、現在有名な五色不動六寺院が出そろうのが明治末年、そして「五色不動」という名称が現われたのは大正時代である。少なくとも「天海が風水に基づいて江戸防衛のために五色不動を置いた」というのは、史実ではないということが明らかだ。

 もう一つ、今度は不動尊像の作者と、寺の宗派を一覧してみよう。

・目黒不動 像:慈覚大師・円仁、天台宗山門派
・目白不動 像:弘法大師・空海、湯殿山系 真言宗豊山派
・目赤不動 像:智証大師・円珍?、赤目山、羽黒山系、天台宗寺門派
・永久寺目黄不動 像:慈覚大師・円仁?、真言宗→禅宗→日蓮宗→天台宗山門派
・最勝寺目黄不動 像:良弁、寺は慈覚大師・円仁、天台宗山門派
・目青不動 像:慈覚大師・円仁?、天台宗山門派

 目黒不動と、二つの目黄不動、目青不動はいずれも天台宗山門派であり、天海と同じ宗派である。しかし、有名な目白不動は真言宗、目赤不動は天台宗寺門派であり、いずれも天海にとっては対立宗派ということになってしまうのである。
 もし、天海が五色不動を創建したのであれば、宗派はすべて山門派となっていただろう。そうではないがゆえに、これだけ宗派が違っているのである。

(2)五色不動はどうやって生まれたか

 ここまでわかった事実をもとに、五色不動がどうやって生まれたかを推測してみよう。

 まず、江戸時代以前に明らかに存在したのは、目黒不動である。

 目白不動は以前から不動堂があったが、再興されたのは二代将軍秀忠の命によってであるから、実質的に江戸時代初期の寺と言えよう。そして、その名称は、以前から目白という地名があったからかもしれないのだが、三代将軍家光が「目黒」と対をなすものとして命名したとも言われている。
 そして、目赤不動も秀忠の時代に土台ができ、家光が「目黒・目白」にちなんで目赤と名付けたとされている。

 この三つについては江戸時代初期に存在が確認できるが、目黒・目白・目赤の順に古いことは間違いなさそうである。そして、江戸時代を通じてこの三つの不動が並び称されることとなったが、その総称として「三不動」なり「三色不動」なりといった名称が使われた例はない。

 明治時代に入って、三ノ輪永久寺の目黄不動が登場した。これは推測するに、江戸時代中期に浅草勝蔵院にあった明暦不動、別名メキ不動の記憶があって、それが目黄不動というネーミングに影響を与えたのではないか。三ノ輪と浅草は結構近い。勝蔵院のあったと思われる現在の東武伊勢崎線浅草駅あたりから三ノ輪駅まで、道沿いに歩いても二キロに満たない。20分くらいで歩ける距離だ。明暦不動の記憶を伝えるには充分な距離といえる。
 もう一つの目黄不動、最勝寺の方も同じような理由ではないかと思われる。いや、むしろ明暦メキ不動のあった勝蔵院から本所最勝寺まで、川を挟んで、直線距離で五百メートル。当時、永久寺の目黄不動がさほど有名でなかったとすれば、ダブルネーミングで目黄不動を名乗ってしまった可能性がある。つまり、「浅草あたりに目黄不動がある」という話を聞いて、最勝寺の不動が目黄不動なのではないかと考えた人がいてもおかしくないからだ。

 青山にあった教学院は、明治41年に世田谷に移転した後、目黒・目白・目赤・目黄の四不動の存在を知ったのではないだろうか。この四色を見ると、重要な色である青が抜けている。密教の五色の青、中国陰陽五行説の東方木気青龍の青がないのである。都合のいいことに、教学院はかつて「青山」にあって、「青山の閻魔様」で知られていた。「青」にゆかりの教学院で、勧行寺から引き継がれた不動を「目青不動」にシフトさせたとすれば、それほどの隔絶はない。

 もちろん、これは憶測にすぎないし、目黄・目青それぞれの寺院にとっては気持ちのいい話ではないだろう。由来も何もないのに勝手に自称しているだけ、ということになってしまうのだから。しかし、実際には、寺の由緒などはどんどん「創作」されていくものである。そもそも、慈覚大師がこんなに不動明王像を彫っているはずがない。忙しい高僧があちこちに手の込んだ不動明王像を残しているということからして、やはり伝説の域にあり、伝説ということは誰かがもっともらしい物語を「創作」したということである。

 ノンフィクションはノンフィクションでかまわないし、伝説は伝説でいいと思う。ただ、それは史実ではありませんよ、ということは検証しておいてもいいだろう。

(3)日本に風水師はいなかった

 2006年7月7日読売新聞夕刊に、「岩佐真悠子の我が道を行く」というコラムが掲載されており、その中に五色不動のことが書かれていた。「江戸、今の東京は人工的に作った風水都市だという話を聞いたことがあったので、少し調べてみました」とあり、おそらくは荒俣宏氏の『風水先生』あたりを読んだのではないかと思う。以下、少し引用してみよう。

 そこで出てくるのが天海僧正という天台宗の高僧です。言い伝えでは135歳まで生き永らえたっていうから常人ではないでしょう。この天海さんが東京の風水的なところをレイアウトしたみたいです。
 んで、この人の作った霊的バリアーの代表例が五色不動です。黒、赤、白、青、黄。これは宇宙の構成要素で、密教でいう所の地、水、火、風、空を表す五色の不動明王で囲んだって事です。ん~、いろいろ調べてみたけど難しい……。

 こうして「天海は風水に基づいて江戸に霊的バリアーを張り、それが五色不動である」という伝説がくり返され、そして根付いていくのである。この記事は、まさに伝説が広まり、伝わっていく過程を示しているといえよう。

 しかし、そもそも、日本には「風水師」はいなかった。風水の思想に基づいて作られた都市などはまったく存在しない。いや、それどころか、今の日本でも本当の風水師はほとんどいないのである。
 風水といえば、有名なドクター・コパがいるが、あれも実は風水ではない。あの内容は、日本の家相術、方位学、九星気学、算命学などを組み合わせたものであって、中国や韓国、あるいは沖縄で実践されてきた風水とはまるで違うものなのである。

 本場の風水とは、大地を流れるエネルギーライン(龍脈、地脈)の流れを知り、そのエネルギーをよく取り入れることのできる場所に家や墓を置くというものだ。特に山脈の形を見、エネルギーが力強く流れてきて、さらに川や山でうまく気がせき止められ、エネルギーが蓄えられる場所を見つけだすことが重要である。

 したがって、「家をどこに建てたらいい」とか「このマンションの立地は気を得られないからダメ」といった、住まいの立地条件から始めなければ、風水とは呼べないのである。それなくして、いきなり「部屋の西側に黄色いグッズで金運アップ」というのは陰陽道に基づいた方位学の話であって、どこからどこへ地の気が流れているかもわからないのに一律西側にどうこうということ自体が風水ではない。

 もっとも、風水も中国北方の平原地帯に伝わってからは、山で龍脈を見ることができず、川の流れを水龍として見たり、星占い的な要素を取り入れたりもしたわけで、それが羅盤を使う風水として完成したといえる。しかし、インテリア風水と称して実は日本古来の家相術や方位取りをアレンジした占いが一般に風水だと思われている現状は非常に嘆かわしい。
 日本で一般に風水と言えば、コパ流の「開運インテリア風水」であって、地脈を見るような地理風水はほとんど省みられていないのだが、その割には「江戸は風水都市」という話が受け入れられるのも不思議な話である。

 このあたりの話はまた詳しくまとめてみたいと思っているが、日本で風水というものがあるということが知られるようになったのは、20世紀末、学術的な風水研究が始まってからのことだろう。さらにそれが人口に膾炙するきっかけとなったのは、荒俣宏氏だといえる。『帝都物語』に風水師という職業の人物を登場させ、『風水先生』などで風水を日本に紹介した。その後、ドクター・コパが登場して一気に風水という言葉が「インテリアで開運できるおまじない」の一種として認知されるようになったわけである。そういう意味では、荒俣氏の紹介した風水は玉石混淆の部分もあるが、とにもかくにも「風水」であることには間違いないので、まったく風水と関係ないインテリア風水とは別物であるといえる。
 しかし、それ以前、日本には風水はなかった。あるのは、陰陽道の方位取りや四神相応、方違えであり、それ以降の家相術や九星気学・算命学といった占いだけだったのだ。大地の気の流れを調べ、それが蓄えられるよい土地に都市を造る、あるいは建物を配置する、といった「風水」の発想はなかった。陰陽道は確かに中国の陰陽五行説に基づいているため、風水と同源とか似たものと考える人もいるかもしれないが、風水の中で陰陽五行説はむしろ付属的なものであり、重要なのは地の気(風)をいかに調べ、生かすかということである。気功法が人体の気を操るとすれば、風水は大地の気を生かすものといえよう。陰陽道にはその視点がまったくないのである。

 とすれば、平安時代にも、江戸時代にも、日本には風水の発想がなかった。天海は風水的な発言をまったくしていない。もちろん、江戸城の鬼門・裏鬼門には上野寛永寺・芝増上寺が置かれているが、そもそも鬼門や裏鬼門という言葉自体が陰陽道の方位学の発想であり、鬼門を東北に固定するのも日本独自のやり方である。まったく風水とは関係がないのだ。平安京の四神相応も、風水とは関係なく、ただ方位と地形を当てはめただけである。

 沖縄や韓国には確かに風水師がいたし、それに基づいて都市が造られ、悪い気を防ぐための仕掛けが施されている。しかし、少なくとも江戸にはそういった仕掛けは何一つないというのが――夢も希望もロマンもない、身も蓋もない言い方だが――唯一の事実なのである。

 もちろん、風水とは無関係に作られたこの江戸/東京、あるいは飛鳥・奈良・大阪・京都・鎌倉といった古都を、風水的な視点から見るとどうなのか、というアプローチは可能だと思うし、面白いのではないかと思う。「江戸は風水に基づいて霊的に建設された」と主張するのは無理だとしても、「江戸を風水的に見る」ことは可能であろう。
 もっとも、風水的に見たところで、五色不動は全然意味のないところに立っているとしかいいようがないのである。荒俣氏もそれには気づいていたようで、『風水都市』でも五色不動は密教に基づいて作られたと書かれている。もちろん、風水は密教とは関係がない。

(4)なぜ天海だったのか

 しかし、五色不動伝説は荒俣氏が作ったものではない。五色不動伝説が作られたのは、風水都市理論を広めた荒俣氏以前の明治末~大正のことである。そして、慈眼大師南光坊天海がこの五色不動伝説での中心人物として登場するのも、伝説の生まれた当初からのことである。

 五色不動そのものが出そろったのは、すでに見たように明治40年代であった。江戸時代初期に存在していた目黒・目白・目赤に加え、明治になってから目青・目黄が加わり、大正に入って五色不動というセット名称が成立した。それ以降、古くから存在している三不動の方でも五色不動の存在を認めるに至っている。

 この五色不動伝説を生み出す原動力になったのが、江戸時代の大坂で書かれた知ったかぶりトリビアエッセイ集『夏山雑談』であることも間違いないだろう。そこに書かれた四色または五色の不動の話は、当時はそんなものは実在しておらず、単なる与太話、あるいは都市伝説にすぎなかったわけだが、瓢箪から駒で、本当に東京の寺院の中にその伝説に自ら合わせようとするものが出現してしまったのだった。

 『夏山雑談』には「江戸幕府草創のとき、慈眼大師南光坊天海が命令を受けて、江戸鎮護のため四方に不動の像を建立し、不動の目を赤・黒・青・白の四色になさった」という説が書かれている。これが現代の五色不動伝説のよりどころになっていることは間違いない。明治になってから目青・目黄を名乗った寺院は、いずれも寺のプロモーションのために伝説を作り上げたに違いないのだが、それによって『夏山雑談』のデマは事実と化け、天海という人物がすべてを仕組んだかのように記されることになったのである。

 もっとも、天海にはそのような「濡れ衣」を着せられるだけの素地があった。たとえば、上野の山に天海が作った寛永寺は、東叡山という。つまり、東都の比叡山という位置づけだ。京都の東北の山の中に比叡山延暦寺があって鎮護国家の役目を果たしているのと同じく、江戸の東北の山の中に東叡山寛永寺を配置した。さらに、上野の不忍池を、延暦寺の麓にある琵琶湖に見立てたのである。

 あるいは日光東照宮においても、天海はこのような密教的イコノロジーやシンボリズムをふんだんに盛り込んでいる。密教の秘儀を駆使して、江戸の宗教的統制を行なった天海僧正――それが五色不動伝説でも主役として抜擢されるのは、決して不自然なことではない。

 ともあれ、『夏山雑談』の与太話から約一五〇年、「五色不動」は東京に現実のものとして現われた。そこで与太話は寺社の由緒ある縁起に箔をつけるものに昇格した。それからさらに一〇〇年、「天海のつくった風水都市江戸」伝説と絡み合って、五色不動伝説はさらなる発展を遂げたのである。

(5)情報の混乱と新しい伝説

 このような伝説が広まるのはなぜか。一言でいえば、「他人の話を鵜呑みにする」思考停止が原因である。疑えばいいというものではないし、だれそれはウソをついていると決めてかかるのは逆の思考停止であるが、述べられたことを「確認」する姿勢は常に必要だろう。

 五色不動については、それぞれの寺院の縁起があり、また荒俣宏氏や加門七海氏の著書が手に入りやすい資料である。しかし、そこに書かれていることを楽しむのではなく鵜呑みにしてしまうと、自分自身がその伝説を強化する役目を果たすことになる。

 たとえば『夏山雑談』に五色不動の根拠があるという資料があったとするなら、『夏山雑談』そのものの記述を読み直してみればいい。それが資料に書かれているとおりならば、その論拠は強化されるし、そうでなければ疑問を確かめるためにさらに調査を進めることが必要になってくるだろう。

 また、書かれていることの辻褄が合ったならば、それが事実と合致しているかどうかを確かめる必要がある。論理的にはいくらでも辻褄を合わせることができるし、事実とかけ離れているが論理的には正しいというものはいくらでもある。重要なのは、それが事実と合っているかどうかなのだ。推論を重ねていかに堅固に見える議論を積み重ねても、現実と合っていなければ意味がない。

 五色不動の場所が東西南北に対応し、四神対応や密教の五色、あるいは陰陽五行説の五色に対応している、という議論はいくらでも積み重ねられる。しかし、実際の五色不動の所在地はそれらとまったく合っていない。この事実一つによって、すべての伝説が崩壊してしまうのである――もしその位置のずれを合理的に説明できる理論がなければ。あるいは、江戸時代には目青も目黄もなかった、という事実によって、四色や五色をもとにした理屈はすべて崩れ去るのである。この事実の前には、いくら声高に「五色不動は天海が作った霊的都市防衛システムである!」と叫ぶ人がいたとしても、それはむなしい発言となろう。

 江戸は霊的に守護された都市である――という伝説自体は、非常に興味深く、楽しいものである。私も好きか嫌いかといわれれば大好きで、実をいえば五色不動は天海の作った霊的ネットワークの一部であってほしかった。だが、さすがに事実に合わないものを主張するわけにはいかない。文献や資料や証拠がなく、空想の余地があるところで、事実と矛盾しない範囲で楽しむのなら、大いに楽しむべきだと思うのだが、事実・現実を無視してしまうなら、それはもはや別世界、空想世界のフィクションと考えなければならない。

 岡本靖彦氏の『五色不動存疑』や、井上智勝氏の「江戸守護の呪的バリア「五色不動」とは?」での論考は、いずれも通説に飽きたらず、原典資料に近づこうとする姿勢のもとで生まれた素晴らしいものである。今回の調査でも、これらの資料がなければ原典資料にたどり着くことも難しかったかもしれない。実際に教学院に問い合わせている岡本氏の行動力がなければ、『夏山雑談』の秘密もわからなかっただろう。

 結局、五色不動は江戸時代にはなかった。それは、人によっては残念に感じることであろうし、そういう事実を受け入れたくない人もいるだろう。

 しかし、江戸時代に生まれた「五色不動」といううわさ話は、150年の時を経て、明治40年代に現実のものとなった。つまり、「天海が作った江戸の霊的バリアーとしての大江戸五色不動」は存在しなかったが、「伝説から生まれた東都五色不動」は実際に現存しているのである。そして、新しい東都五色不動は伝説を増殖させながら、100年近い月日を過ごしてきた。そのこと自体が興味深い話ではないだろうか。

(6)残された謎=家光の鷹狩り

 五色不動をめぐる調査は、ひとまず終わりを迎えた。しかし、これですべてが判明したというわけではない。

 たとえば、目白不動の由来についても、もともと目白という地名があったのか、それとも目黒不動にちなんで名付けられた目白不動があったからなのか、現時点でははっきりしていない。

 興味深い課題としては、目黒・目白・目赤の三不動(さらに最勝寺目黄不動)には「家光が鷹狩りをしたときに……」という説話が含まれていることが挙げられる。目黒には家光の鷹が留まったという松までが残されているほどだ。

 将軍の鷹狩りというのは、他の身分の者には許されず、将軍としての威光を江戸の外延地域で見せつけるものであった。目黒・目白・目赤、さらに本所にあった目黄のいずれもが、江戸とその外側のぎりぎりのライン上にあるがゆえに、鷹狩りとの関連が生まれたものと思われる。だからこそ、「五色不動の内側を朱引内と呼んだ」という誤った伝承も生まれたわけだ。また、江戸の内側にあった永久寺目黄不動と教学院目青不動に鷹狩り伝承が伝わらないのも、また自然なことであると思われる。

 鷹狩りは地元にとっては大きな負担であった。しかし、これらの寺院にとっては、鷹狩りにおいて将軍が立ち寄る場所であったと主張することは、自らの格を高め、箔がつくようにという意図があったに違いない。目黒や最勝寺には将軍の御座所まであったというが、これは最高の栄誉であっただろうし、観光地としての寺院のプロモーションには最も適していたはずだ。将軍家光がたまたま立ち寄っただけの目白や目赤でも、それが名前の由来と結びつけられている。今でも「天皇陛下お手植えの松」などが誇らしげに飾られているのと同じ感覚だろうか。事実か自称かは別にして、将軍の命名ということが一種のステータスとなったことがわかる。

 しかし、それにしてもなぜ「家光」の鷹狩りでなければならなかったのか。目白不動の新長谷寺は二代将軍秀忠が再建している。秀忠が目白不動と命名したのであってもまったく問題ないはずだ。それなのに、目黒・目白・目赤そろって家光がらみなのである。目赤は年代的に家光以降でなければならないのはわかるが、三つそろって偶然、家光鷹狩りに絡むという事実があったのか、それとも家光ということにすべき何か特別な理由があったのか。この点についてはさらに研究することが必要だろう。

 おそらく、この次のステップとしては、「家光の鷹狩り」もしくは「将軍の鷹狩り」を由緒とする江戸の寺院をすべてリストアップし、その共通項、あるいは三不動の特殊性を浮かび上がらせることが必要なのだろうと思われる。つまり、三不動(+最勝寺)が不動だから鷹狩りと結びついたのか――すなわち、不動明王信仰が鷹狩りと何らかの関係を持っていたのか、そうではなく単に江戸の境界にあったから鷹狩り伝承が絡んだのか、という点を含めて考える必要がある。また、なぜ家光なのかという謎も解き明かさねばなるまい。しかし、今はそこまで研究が及んでいないので、これは今後の課題として置いておきたい。


★★★★★★★★★★★
これにてひとまず完結。
途中、連載の中断が長かったにもかかわらず、内容を楽しみにしてくださっていた方々がいらっしゃったことは、非常にうれしい限りです。

実際には、目青・目黄の写真のページを飛ばしています。また、目青・目黄に関しては、実際にその寺院に問い合わせをしてみたいと考えています。その結果を盛り込んだ時点で、本当の完結になります。もしかしたらここまでの結論を覆すような新しい事実が見つかるかもしれません。

(完)
(初出:2006年9月12日)

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