目指すゴールは似ていても、手法の違いから生まれる対立

今日の大河ドラマ「蒼天を衝け」では、岩崎弥太郎に招待されて芸者さん達に鼻の下を伸ばしていた渋沢栄一が、商いの手法で弥太郎と真正面からぶつかりあうという見せ場がありました。
商人皆で協力して経済を育てて豊かな国にしていこうぜー、な栄一と
強い商人が一手に引き受けてこそ早く国益を強化出来る、という主張な弥太郎。

21世紀に生きる私らの感覚では「そうは言ってもやっぱり民主主義的に…」となりがちですが、当時の日本は、まだまだ発展途上国。
産業振興を何が何でもスピードアップして、お隣の国々のようにヨーロッパの国々の植民地にされないよう必死で国を強くしていった時代です。
そこを抜きにして「富国強兵」な考えを悪者にするのはちょっと単純過ぎる。
とはいえこの手法だと貧富の差が露骨に出てしまい中間層のバッファがかなり薄くなる。そうなるとフランスのように革命も起こりかねない、というリスクもある。どちらも正解とは言えない。

何かと似てるなぁ、と思ったら大河のエピソードの少し前の時期、明治7年から11年にかけての、奄美での「黒糖自由売買運動」でした。

あの話も、島にいるとどうしても
「薩摩がまた黒糖の儲けを独り占めして、明治の世に入っても島民を酷い目に遭わせた!薩摩はひどいやつ!」

というステレオタイプの被害者話になりがちなのですが、本当にそうなんでしょうか。
白糖(黒糖じゃないところがポイント)工場を作ろうとしたという点から、鹿児島県側に奄美での近代的な工業を開始する意図があったことは否めません。
それまでと同じような農奴状態にしたかったら、いちいち海を越えて資材を運び、当時の建築材料としては考えられない最先端な煉瓦造りの建物を構えたりなんてするんでしょうか。キビを刈り取りそのまま本州に運んでから加工→流通する方がよほど手間がかからなかったと思うのですが。

さらに専売廃止のあと自由販売となった奄美で何が起こったかというと、鹿児島だけでなく大阪や長崎から商人がやってきて、明治維新まで貨幣での売買を行なっていなかった奄美の島民は不利な売買条件のまま契約してしまったり、台風で不作の際に負債を抱え込んでしまい裁判にかけられたり、と商才を発揮できるような人間がなかなか奄美では育ちませんでした。

そんな顛末を考えると、専売で行った方が良かったのか…?とも思われますが、
その後の奄美の歴史を鑑みると「災い転じて福となす」だったとも言えます。

なぜならこの売買自由化運動の犠牲者を出したことや、自由化での失敗の結果、奄美群島では「このままじゃいかん」「他人の食い物にされ続けないためには、子供らにちゃんと教育を与えねば」と、教育が盛んになっていったからです。

その結果、明治後期から昭和の戦前にかけて奄美群島から優秀な人材が多く育ちました。
1874年の売買自由化運動から72年経過したのち、本州で生活していた奄美群島の出身者達は、戦後の廃墟の中から「我らが故郷、奄美群島を1日も早く本土へ復帰させよう」と郷友会の結束を強め、奄美連合として活動を始めます。
学もなく政治的な交渉など経験したこともない農民と少数の学を身につけた島民の集まりだった自由化運動から80年。
この時にはもう法曹・経済、共に多くの人材が育ち、島外からの熱意は奄美群島内にも響き、自由化運動以来の「群島一丸となった非暴力・民主主義的運動」へと発展していったのでした。

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