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重野安繹と弟子・岩崎弥之助(前編)

さー、今日こそは続きを…と思ったんですが。
すみません。また少しずれます。
全然違う話、という訳ではないんですけどね。

今日の大河ドラマ「青天を衝け」を観てたら、岩崎弥太郎が急死、年の離れた弟の岩崎弥之助が三菱財閥の二代目総帥になる回でした。

えー、岩崎弥之助と来たら師匠のあの人のこと書かないとー
と言うわけで、2017年ごろ「菊次郎伝」を書いてた際に、少し触れた重野安繹博士について。

誰それ?と思うかもしれませんが重野安繹博士は結構、いやかなり幕末の外交、明治期の人材教育や史学の発展、さらに現在に至るまでかなり我が国の歴史文化財保存に貢献しております。

文政10年(1827)薩摩国の坂元村(現在の鹿児島市坂元町)生まれ。
優秀だったため島津斉彬公の目に止まり、儒学・漢学の幕府直轄エリート校であった江戸の昌平黌(しょうへいこう)にて学ぶ。
文久3年(1863)薩英戦争後、横浜での交渉に薩摩側の主導として参加。この交渉以降、英国は薩摩を評価するようになり関係性が良好になる。
元治元年(1864)に藩校である造士館助教となり島津久光の命により『皇朝世鑑』の編纂開始。
明治元年(1868)に大阪に移って成達書院を開く。
明治4年(1871)に上京して明治8年(1875)から修史事業に携わる。
明治14年(1881)には編修副長官として『大日本編年史』編纂に参加。
明治21年(1888)、帝国大学文科大学(現在の東大文学部)教授に就任。

親戚から養女にした娘・尚は大久保利通の長男に嫁いだりも。
そんな立派な人がなんで奄美の郷土史に関係あるの?と思うかもしれませんが
幕末期の奄美大島に6年くらい住んでたんです。
というか遠島されてました。

遠島処分となった原因に関しては、下級武士でありながら重宝される重野に他の同僚が濡れ衣を着せた、もしくは同僚の使い込みの連帯責任、などなどあるのですが、その辺りは今回省略。

この方、知れば知る程「ハテ?」となる人でして。
というのも、重野が奄美大島は瀬戸内の阿木名村にいたのは1857年から1863年のこと。

その頃、代官として駐在していた桂久武のところを訪ねて「そろそろ戻ることになるかも」と言ってたり(桂久武日記)
いやそれ遠島喰らった罪人が言うセリフじゃないよな…そんなセリフを代官が咎めもしないの?
と思いながら読んでました(URLつけたいけど鹿児島県立図書館のPDFリンクがエラーになってました)

しかもその後に帰藩したら久光公のお庭番→薩英戦争の戦後交渉という、「いやいや待て待て、1年前まで遠島処分されてた人でしたよね!」とツッコミたくなるくらいに要職へ。
前科者じゃないんかー。

しかも交渉も恐ろしく上手くやり遂げ、結局薩摩藩は得して江戸幕府が損する、英国は感心して薩摩藩と親しくなる、という結果に。
これなら維新後は勝ち組薩摩出身者ですし外交畑へ行きそうなものですが、重野はなぜか維新後、大阪へ。

そしてそこで私塾を開いた際に「お前、重野先生んとこで学んでこい」と兄・弥太郎に背中を押されて送り込まれたのが岩崎弥之助でした。

ここがまた謎。大阪なら既に多くの幕末のインテリ層が私塾を開いていたはずですし、商人も多いのだから蘭学関係もあったはず。
が、あれだけ商才のある岩崎弥太郎が、目に入れても痛くないほど可愛がっていた弟・弥之助を学ばせるために選んだのは、薩摩から出てきたばっかりの、英語なんて話せないし、漢学なんて徳川時代の古い学問だと一蹴しそうな重野の塾。
これまた「ハテ?」としか言いようがないのです。

ここは推測ですが、弥太郎が弟・弥之助に重野から学ばせたかったのは漢学ではなく「英国に舌先で勝利した交渉術」ではなかったのかと考えます。

そこで更に気になるのが
重野は一体どうやってそんな交渉術を身につけたのか
という点。
その1年前までは国際法なんて縁のないはずの奄美大島は阿木名の集落で、のんびり鼎さんちの貴重な蔵書を読みつつ妻子と暮らしていたはずです。

言っちゃなんですが、大半の奄美のシマッチュは「交渉」ごとが苦手です。その後、砂糖販売自由化でも大島紬でも本州の商人によくよく利用されるくらいに商売がヘタな人が多い。
ましてこの時代は貨幣を使用してないから尚更です。
仮に、重野が昌平黌でディベート的な問答訓練をやっていたとしても、それから何年も経過しています。当然、弁舌は鈍ります。
それが初めて見る「はず」の英国人相手に堂々と「国際法を先に無視したのはそっちだ」と啖呵を切り、粘り、最終的には相手も損しないようにまとめる。一朝一夕で出来ることじゃない。

私はこう考えています。
重野は奄美にいる時、与人の子息らに塾で教鞭取りつつ、薩摩藩の密貿易に携わっていたのではないか」と。
それなら帰藩後の厚遇も理解出来るからです。
後年はやたらに論文や文献を連発して残している重野が、遠島時代に全くと言っていいくらいに「何をしていたか」の記録を自分から残していないということは、表立って量や販売記録を出せないもの=硫黄島の火薬を扱っていたのではないのか?と思ったりもします。

鎖国状態ではありますが、中国大陸からの漂着船があった場合送還するために薩摩藩では唐通事(通訳)を養成していました。
そんなに何人も何箇所も必要か?と思うくらいに。

「うっかり日本に漂着しましたー(計画通り)」といいつつの密貿易が、目立ちやすい琉球ではなく、奄美の、それも台風などの強風から避難するためにうってつけだった大島海峡内部の集落だったら可能だったのではないでしょうか。
アーバカナと中世奄美の海上貿易④参照)

そして、この遠島の時期について重野が自ら語っていることは少ないのですが「鼎宮和気氏の書籍が数十函あってそれを読んで学殖増進した」と重野本人の墓碑に刻まれており、これまた
「当時はかなりの高級品だった書籍を、通訳とはいえそれだけ揃えられるってどういうことなんだろう」
という疑問が湧きますが

長くなるので(いやもうかなり長いけど)中編へ。

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