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「運命に問われている」と思うことにする
例えば。
「最期」がない人はいないわけだ。
その「最期」――あの世には何も持っていけない、その「最期」に、魂だけになった時、どのような魂になっていたいのか。
問われているのは、ただただ、その一点なのではないか、なんてことを、ふと思う。
(年末っぽいですね。笑)
いつ何どきでも。
何が起きたとしても。
最終的に、試され、問われているのは、「それで、自分自身はどうありたいのか?」ということなのかもしれない。
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例えば、自分の「身体」は案外、自分自身ではどうにもできなかったりすることもある。
――けれど、そんな時ですら、自分の「魂」だけは、唯一、自分でどうにかできるわけだから。
「魂としての自分は、どうありたいのか。」
――「その問いに答え続けること」が、即ち「生きること」だと、私は解釈してみようと思う。
![](https://assets.st-note.com/img/1671241014774-Y2WJd9LUAL.jpg?width=800)
ところで。
途中、(年末っぽいですね。笑)……なんて書いてみたけど。
え、もう今日は17日なの?!早いな!!
――と、こんなふうに、死ぬ間際まで、「え、もうそんな頃なの?!早いな!!」なんてことを、自分はまた思っていそうだなあ。(笑)
「そんな問いの答なんて、考える間もありませんでしたよ」っていうのも、それはそれで、アリなのかもしれないですね。
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