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「流れている」ということ

坂口恭平さんの文章を読むのが、日課になっている。

SNS、とりわけツイッターのほうは、坂口さんのところを開けるとだいたいいつでも何かしら新しく書かれており、更に御自身の調子の良い時にはそのままそこに大量ツイートがなされ、もはや一つの「読み物」と化していたりする。

文章も書くし絵も描くし音楽も作る、で、それをバンバン惜しみなくまず先に無料公開している。――それらは後に書籍化されたり、CD化されたりするのだが、「そんなことはおかまいなし」という感じである。(で、それでも、本も画集も売れるのである。出版不況といわれる昨今でありながら、坂口本は重版もされる。……そういや、坂口さんのSNS上でタダでも読めるものを、私も、紙の本でわざわざ買っているしな。笑)

坂口恭平さんの本。――他にもまだ持っているのだが、
所有している本を整理してなくて、とりあえずすぐ取り出せたこの3冊を。(笑)
画集もまたよいのである。

「流れている」というキーワードが、時々、坂口さんの話の中に出てくる。(私が昨日の記事で、「流れ」みたいなキーワードを使ったのは、多分、そのまんま坂口さんの影響だろう。笑)

その「流れ」みたいなものを止めてしまうものは、いろいろあるとは思うが、私が個人的に真っ先に思い浮かぶのは、「余計な考え」ってヤツである。――狙ったり、企んだり、何かコントロールしようとしたり、ということ。――人に対してのそういう考えはもちろん、「運命」みたいなものに対してのそういうことも、ここには含まれる。

坂口さんの日々更新されるツイートを読んでいると、実際、言葉も考えも、それに伴う動き方までも、「流れているなあ」と感じる。――単に「忙しぶって」せわしなく動かし動いているのではない。(坂口さん自身が調子良さげな時は間違いなく「恐ろしくせわしなく動いている」笑のだがしかし、それもなんというか「忙しぶる」ためにそうしているのではない、ということだ。――やけに狙って「忙しぶる」タイプの人も、世の中には結構いるじゃないですか。そういうんじゃないんですよね。)

で、「流れている」って、それだけで、何か気持ちいいなあ、と思うのだ。
「流れている」には、計算とか、巧妙さとか、そういう「不自然な力」は、そもそもいらないのだ。

よくよく考えてみれば生命体とは、絶えず呼吸したり光合成したり体内循環させたり、つまり絶えず動いて「流れ」の中にあるのが自然なものだし、いや、自然界に属するものは、そのスピードはモノによって違いはあれど、絶えず動いてあるいは時の経過とともに変化して「流れ」ているものばかりである。

そして更に考えてみると、その中に於いて、「人の思考」だけが、「停止状態」を求め、実際にそれをしようと企むものではないだろうか?――「よりi今より良いところまでいって、うまいことそのままそこに留まりたい、留めてしまえないか」みたいな企ても、それには含まれる。

坂口さんには、そういう「邪気」がない。――それは、ずーっとツイートを読ませてもらっていて感じるところである。
大人でこういう人は珍しい、というか、なかなかいない、というか。

自分も「流れていきたい」と、このところ考えているので、「邪気」のようなものは、なるべく減らしていきたいのであるが、……う~む、これがなかなか難しい。
だってこれまで、「邪気ありき」「計算ありき」で動いてきた自分であるからして。(そのうえ、この世の中も何だか「邪気と計算だらけ」だし、その中で生きようとなるとどうしてもつられてね。笑)

さて。

私自身が書いたnote記事の中で、どのタイトルだったかはわからなくなってしまったのだが、(毎日書いていると、こういうことが起こる訳です。……自分だけかもしれないけど。笑)「振り返ってみると、昔々の自分は、軽めの対人恐怖症だったのではないか」というようなことをかつて明かしたことがあった。

で、今、それを更によくよく考えてみたのだが。
もしかすると、「昔の自分は、当時の自分で思っていた以上に、割と鋭くて、人の「邪気」みたいなものにやけに敏感だった」という、ただそれだけのことだったのかもしれない、と、行き当たった。
そして今は意図的に「鈍く」しているのだと思う。
いちいち人の「邪気」や「心の裏」を気にしていると、疲れるからである。――そこに敏感になって先に気づき反応し過ぎても、単に消耗が激しいだけで、「(ある種の)事故」を未然に防げるわけでもなし、だよな?と、どこかで気づいたのだ、ということですね。(笑)

たぶん同記事の中だったかと思うが、昔の自分のことを「軽めの被害妄想」ともいっていた気もするが、――なので、はたしてそれは本当に「妄想」だっただろうか?とも、今思い直している。
つまり、それは単純に、他人の邪気の、それも「ほんの微かなもの」にすら、反応して(反応できて)しまっていた、ということなのでは?と。――まあ、大昔とはいえ自分のそういう「鋭さ」なんて感覚的なものを、あんまり自身で買い被っちゃったりしたくはないのではあるが。
しかし20年くらい前の自分は、確かに自分であっても最早どこか半分「他人」なので、(とはいえ、あと何十年経過しようともそれは「あとの残りの半分のほうも他人に」とは永遠になり得ないものであるともまた思うのだが、)明らかに「今現在の自分」とは違う大昔の自分には、そういう「勘」がよく働き「過ぎて」いたのは間違いない気もする。

そして。

いつか自分の中に「邪気」が生まれた頃から、他人の「邪気」を跳ね返せなくなった、と、そんな気もする。――だって、「類は友を」の要領で、同類の心理というものは、どこか引き合おうとするところもあるものではないですか?
だから、他人の邪気が、弾かれることなく、当時の自分の内側にまで「沁み込んで」来たのではないだろうか?

しかし、「邪気」は、――特に自分の内側にあるもののほうは――自分が今求めている「流れる」ということの「障害物」になる、と、しみじみ感じているわけであるからして。

――さて。
「すっかり大人になった私」は、この先、どこまで「邪気」を捨てきることができるだろうか。――そんなこと、「この私」に、できるのであろうか??

ここまでに培った「心強い鈍さ」(このおかげで随分とラクにはなりました。笑)と、どこかで人目や自分の目にもつかないところにいつかしまい込んでしまった「扱いづらい鋭さ」を、二つ同時に併せ持ってここからはいたい。(――無理しない範囲でだが、できることなら試してみたい。)

そんな自分には、もしかしたら、「絶えず流す」ことと、あとは先述した坂口さんのような「邪気のなさ」が必要なのではないか?ともまた、考え始めているわけなのである。

※またもや、込み入っている割にはこの上なく漠然とした話になってしまって、スミマセン!
明日はもっと軽めにわかりやすいことを書こうと思います!