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眠れるということ、眠れないということ

覚醒した途端、ついさっきまで見ていたはずの夢の世界は、文字通り「霧散霧消」してしまうので、慌てて少しでも消えてしまわぬうちに、と、とりあえずメモ書きでトレースするのだが。

もう、現実世界の中でどんなにそのままを映し書きしようとしても、それは既に、夢の中とは何かが違うのである。

脳内の「スイッチ」が違うといえばいいのか。現実世界で使う言葉では、夢の中の世界は描写しきれない気もする。――もしかすると、このように「文章化」して保存しようとすること自体がよくないのかもしれない。「文章」って、どちらかというと「現実側」のアイテムなので。(夢の中の風景を、「箇条書き」で「記録」をとる感じにすればいいのだろうか? で、あくまでその再現は、脳内で自ずと起動する「回想力」に任せる、とか?)

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最近では、現実よりすっかり夢の中の世界のほうを愛し始めており(笑)、朝起きて、急速に「夢側の世界」を覆い隠していくような、そんな「現実側の世界」が、煩わしくて仕方ない。――それはもう目覚めた瞬間からである。有無を言わせず「現実側」は、私の脳内を、私の認識を、不穏に「浸食」し始めてしまう。

……いや、その割には。

一日の終わりに(「明日」だって「明後日」だって、まだ存在するだろうに、それを待つことがもどかしいのか、)私は、「その一日」のうちに、あれもこれもと詰め込みたくて仕方なくなる。

つまり、私は現実世界の「何かしら」をし続けようとする。早く寝ればいいものを、覚醒時間を少しでも引き延ばすように、眠る寸前まで、あれやこれや(ネットに読書に映画に音楽に)と現実世界と繋がり続けて、――で、そのまま眠りの側に転げ落ちて、または、引きずり込まれて、うっかり「寝落ち」ということもよくある。(「寝落ち」については、体調面等で「残念なこと」になることも多いので、「しないようにするぞ!」と堅く心に決めているのだが。……にもかかわらず、布団の外でとか、煌々とつけっぱなしの電灯の下でとか、ヘンな体勢でとか、そういう状態で真夜中の中途半端な時間にハッと目覚めることの何と多いことか!)

まとめると。

「現実側」に留まっていたい、あるいは「夢側」に留まっていたいと、どれだけ自らそう願っても、どちらも強制終了されていく。有無を言わせず、私がいる世界は、私がいるのに、私の意思などは無視するのである。そして、「現実側」の「覚醒時の世界」も、「夢側」の「睡眠時の世界」も、交互に来ては、私の存在などまるでお構いなしに、勝手に始まっていく。

ああ、「世界」とはそういうものでしたか、と、改めて思う。

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ところで。

寝つきの良さだけには紛れもない定評がある(笑)私にも、眠れない時というのがある。――先回りなどできない明日のことが気になってしまったり、その時に考えたって仕方のないことをそれなのにいつまでも考え続けてしまったりして、だいたい眠れなくなるのだ。緊張、不安、怒り、悔しさ、そういった「現実」を、今つかんでいたって仕様がないとわかっているのに、私のこの手が、つかんで離そうとしないのである。――ああ、自分の「意識」って、不器用だなあ、と感じる。例えばこのように、昂ぶってしまったものを、自分の思い通りに鎮めることすらままならないのだ、自分のものなのに。

「意識」すら、自分の意のままにならないというのに、この「世界」が、自分の意のままになるものであると、どこかで私は勘違いしたのかもしれない。

否応なく睡眠の世界は押し寄せてくるのが自然だし、同じく否応なく覚醒の世界が押し寄せてくるのもまた自然である。自分が見ていた世界さえ、もう一方の世界(夢の中では現実、現実の中では夢)にいる時に、自由に記憶しておくことすらままならない。つまり、自分が直面している「世界」とは、何ともいやはや、自分の手のうちにはまるっっきりないものではないか。

私は世界に「触れる」ことは許されている。「見る」「眺める」こと、「聞く」こと、「伝える」ことは、許されている。

でも、それは「世界=自分」ではないから、できることではないのか。――なのに、私は時折、「世界=自分」だと思いたがっているのだ。自分の腕を上げ下げするように、自分の脚を前へ後へと動かすように、世界も動かせるだろうなどと、思いたがっているようなのだ。

本来それができないものを「支配」しようとすればするほど、「制御」すらもできなくなっていく、離れていく。そんな感覚を思う。――自分にとっての世界は、まさにそれなのだろう。眠ろう眠ろうと「意識」をすればするほど、そこに本来来ているはずの「眠りの世界」が遠ざかるのと同じだ。なるほど、世界とは、自分の意識が「介入」するものではないのだな、と、思う。

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自分自身の姿を、自分で見られないのと同じことかもしれない。(鏡などの中に「左右反転した」自分の姿は見れるが、「生身の」自分は、「幽体離脱」でもしない限り見られない。)世界=自分であるならば、自分は、自分の目で世界を眺めることはできないはずである。私は、この世界にいて、眺めて、聞いて、書いて、触れるのが好きなのだ。――ありがたくもそれが「できている」というこの状態は、つまるところ。

今、(この現実も夢も、)世界を見て聞いて触れているということは、「自分だけが世界の外側にいる」というようにも、考えられるのではないか。

だから、自分が触れている「世界」を、私は一度、この「意識の手」の中から、手離そうと思うのだ。

そして、これまで通り、いつも通り、私の意識など素知らぬ顔で、眠りでも、目覚めでも、夢でも、現実でも、世界が「勝手に」、訪れて、回って、動いていてくれればいいな、と思っている。