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「人の悪意」と「人見知り」

「漠然とした勘」は鋭いのに、「実用的な勘」は鈍い。

――いや、これは、私による「自分評」である。


いきなりそんな書き出しで、本日はどういう話かと言うと。

自分の幼少期からの「人見知り」の、その要因を知りたい、なんて昨今思っている自分なのだが。
(で、その要因は、先天的、後天的なもの、両方の、更にはそれぞれ「複合的要素」から成っているのだろうな、とまでは思っているのだが。)

もしかしたら、(なのであくまで「一因」として、)自分は、人の悪意というものを、滅法、敏感に察知してしまうタイプなのではないか、なんて、ふと思ったのである。

――悪意と一口に言っても、それは様々で、ごく小さな、あるいそれを抱いている御本人すら無自覚な、「意地悪な気持ち」然り「妬み」然り、後は「八つ当たり」なんかも含めて。

人の意識に上がってこないようなものまで、「察知することだけ」そこまでは、いち早くできてしまうような子供だったのかもしれないなあ、なんて、今、当時の出来事を振り返って、ふと思ったりしたのである。


しかし、「感じる」ところまではできても、その勘の「精度」は鈍くて。

どのタイミングで、誰の、どの方角から、どのように、それが寄せられるのかまでは、正確にキャッチできない。
(まあ、ぼんやりした子供でしたので。笑)
(もしそれが出来ていたなら、「漠然とした恐れ」ではなくなるから、「誰彼構わず恐れを抱く」そこまでの「人見知り」には、ならなくて済んだ気もする。)


自分はいまだに、「人の悪意」というものが、とても苦手である。
言うなれば、「毛嫌い」している。

――それをまた「人間という存在の悲哀」とか「そういう澱みも生きている醍醐味」とか、そう感じられるくらいの余裕が欲しいところだけど。
――心の余裕、まったくない!――受け入れ難い!!(笑)


但し。

ここ20年くらいだろうか、「訓練」みたいなことは心掛けていて。
あえて人の悪意に「鈍感になる」というか、「あったとしても、それが何だ?」と思うようにするというか。
少なくとも「誰彼構わずいきなり恐れる」みたいなのは、生きづらいから、なくすようにしよう、と、自分に言い聞かせ続けてきたところがある。

――そのおかげで、何となく、「社会生活(つまり家の外の生活)に支障をきたすほどの人見知り」は、克服できている気もする。
(気のせいだったら、ゴメンナサイ。笑)

そういうふうにして、長らく、「他人様の悪意」と向き合ってみて、ふと気づいたことなのだが。

「悪意」を簡単に発する人って、その「悪意」自体を、概して、「簡単なもの」「身近なもの」に考えているフシが、どうもある気がするのである。

一方、「悪意」そのものが大嫌いな自分にとって、「悪意」とは、「悪意」であるだけで既に、「忌避すべきもの」で、「相当なもの」「大層なもの」なのである。

――ついつい、自分がそうだと、他の人も自分と同じような感覚でそれを扱っているだろう、と、考えがちだけれど。
「そうでもないのかもな?」と、ふと私は、気づいたわけなのである。


つまりまとめると。

例えば。
「強い悪意」であっても、その「重さ」のほうは、人によって、全然違うわけだ。
――「同じ悪意」が、例えば、発する側と、受け取る側で、全然違う、なんてこともおこるわけである。

ビニール製のカラーボールを投げるみたいにホイホイ軽く投げる人もいれば。
「それに触れる時はそれなりの覚悟を」と言う感じで、いちいち「よいしょ」と相当の重量級の気合を入れて扱う、そういう人もいるわけである。

で。

もしかすると、私自身、そろそろ、「次のフェーズ」に入ってもいい時期なのかもしれない、と思い始めている。


これまでは、自分に向けられる人の悪意から「目をそらす」方向性だったと思う。言い換えると「あえて鈍感になる」ということである。
――「あからさまに向けられているもの以外は、悪意とみなさず、スルーする」という、それは方針である。

だって、小さなものや、御本人すら無自覚のものまでキャッチしていたら、疲れてしまうから。


しかし。

私は元々は、そこそこ「図太い」人間でもあるのである。(笑)

「悪意」に、いちいち、気づいてもいい時期に来ているのかもしれない。
(そろそろ、大丈夫になっている段階かも?ということだ。)

人の顔色は、むしろ「窺う」ようにする。

で、気づいて、一つ一つ拾った上で、「どうするか」、つまりそれについて「自分がどう対処したいのか」考える。

――だって、「私に与えられた人生」の「私の管理している時間」なのだから、人の気持ち(場合によっては悪意)がどうあれ、それに「どう対処するのか」は、「私が」、決めていいはずなのだ。

「私の行動」なのだから、「私の価値観や感覚で判断して、」それを決めていく、ということだ。

――いや、「あえて気づいて、それを跳ね返す」みたいな作業も、大事なのかもしれない、と、この頃思うようになってきたのだ。
――「呪詛」みたいなものは、気づいているのに気づかない「ふり」だけをしていても、ジワジワジワジワと、目を背けた側の、例えば自分の背中側から忍び寄り、少しずーつ染み込んでくる、みたいなことも、あり得るのかもしれないからだ。
(ま、それすら「気のせい」としてスルーして除ける、みたいなやり方も、手間を省いていく常套手段としては、アリだと思うが。笑)


――な~んてことを、この頃、考え始めている。

歳をとるのも悪くない。

どんどん、図々しく、いけしゃあしゃあと、生きていけるようになっていく。
……そんな自分なのである。(笑)

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