「どうにもならないこと」はあって然るべきなのだ
『私は努力したのだから、人より多くもらって当然であるはずなのに。』
少し前までの私は、このような「傲慢な考え方」が、どこかにあった気がする。
いや、こういう考えを態度に出して「あからさま」にしていたわけではない。――これまでこれが露骨に表面に出ていたことは(あるいは時期は)、なかったと思う。
でも、心のどこかに、こういう考え方があったし、物事への向き合い方に、こういう姿勢がちょいちょい入っていた気がする。
(ということへの振り返りは、以前、この記事でも書いていた。)
(今回は、「その先」へ、思考を進めていこうと思う。)
――え?この考え方の何が悪いの?と、多くの人は考えるだろうか。
「努力した人から順に、多くをとっていく」というのは、ある意味正しい、そのほうがいいよね、とは、私もいまだに思ってはいる。
とはいえ、「すべてが」「必ず」そうでなければならない、そうあるべきなのに、というのはちょっと違うと思うのだ。
実際、現実世界はすべてがそうはならない。
「努力した人から順に」は、この現実世界の「摂理」でもまたない。
では、タイトルのような「傲慢さ」――ある種の「思いこみ」は、私の中で、いつ頃生まれたものだろうか?と振り返ってみる。
(あ、ここからは、謙遜は入れずにいきます。――入れていると、今回のテーマ、話が進まないので。笑)
(で、自分のこれまでを振り返って、)
記憶を遡ると、私の数少ない「成功体験」の一つが思い浮かぶ。
私は、
高校卒業→就職→3年勤めて退職→大学受験して合格
という経路を辿った人間である。
実は、高校卒業当初は、「大学へは行きたい気持ちも少しはあったが、行くとしても、老後までお預けかな?」という気持ちでいたのだ。
そう、目の色変えて受験勉強に勤しみ且つ金策にも走り回ってまで「どうしても今行きたい!」とは、思っていなかったのだ。(当時は当時でいろいろやっていて、そっちにまでエネルギーが回せる気がしなかったのだろう。)
しかし、高卒後に勤めた職を退職した時点で、若干だが(高校時分に比べればだが、まとまった額の)貯金が出来ていたし、ある事情から時間がポンッとそこで空いたということもあり、一言で言えばまあ、「気が大きくなった」のだろう。あとそこに、高卒時分にはまだなかった「もっと勉強しておけばよかった」という気分の、その高まりも加わったということもある。
「――大学受験、今、挑戦してみようかな?」という考えが、ふと頭をもたげたのであった。
実際の受験勉強に当てられる期間は、そこからきっかり半年だったので、フツーなら「そんなうまくいくか?」と思って躊躇するだろうに(今の私の感覚なら挑戦しなかったな、多分。笑)(でも、「1年かけて挑戦」だと、もしかしたら、期間が長すぎて逆に気が乗らなかったかも??ともまた思う)、その時は何故か「いける気がする」となったのである。
で、(自分で言うのもホントに何ですけど)猛烈に、狂ったように勉強して、大学には合格できた。
――という、これが、他人様に「あからさまに」自慢できる、もしかしたら人生で唯一の、私の「成功体験」なのであるが。
つまり、「努力すればその分は報われるはず」だし、「報われないのならば、もっと努力し続けなければならない、努力が足りない」という考えが、ここから私に芽生え、それが心の真ん中を占めた気がする。
――うむ。
いや、悪い考えでは別にないと思うのだ、今でも。
しかし……なあ。
最近の私は、どうもこの考え「だけ」の「それ一辺倒」みたいなのは、受け付けなくなってきた。
その考えだけで動くと、「失われるもの・感覚」があるからだ。
そして、現実世界は、「努力した人から順に」とはいかないし、いや、むしろそっちのほうが「自然」なのだ。
あるいは、「努力してもどうにもならないこともまた必ず存在する、そっちのほうが自然」ということが、自身の身をもってだんだんと解ってきた、ということもあるかもしれない。
(このことにはもっと早く気づきたかったという気もしないでもないが、しかし、人生の前半部分、このことに気づけなかったこと自体は、実はある意味では「幸せなこと」だったのかも?とも私は今振り返って感じてもいる。)
(とはいえ、一定期間を過ぎても、いつまでもいつまでもこのことに気づかないのは、やはり人としての成長における「停滞」だともまた私は感じる。)
(話を戻して、)
いや、くれぐれも――「だから努力なんて無駄だ」とか「挑戦なんて一切やめてしまえ」「欲しいものを手に入れようなんて望みは捨ててしまえ」とかそういうことを言いたいのではない。
――「やりたいなら、やれるだけやってみる」のは、とっっっても大事なことだと思う。
それは「生きるよすが」にだってなり得るものだろうから。
(だから私はこれからも、何かを欲求することや夢見ること自体を、やめる気はさらさらない。――そういうのが全然ないと、それはそれで何だかつまらないんだもん。笑)
(「叶わないこと」それすらもどこか楽しめるように、肩の力を少し抜いて今後はいくのだと思う。)
でも、(話を戻して)「努力したのだから、当然」「努力したその分は必ず」ではないことは肝に銘じておきたいのである。
この現実世界においては、そう、何においても、「当然」という考え方は、私は既に「傲慢」(私にとっての諸悪の根源)だと、このところ感じるのである。
「当たり前」のものは、この世に何一つも存在しないと、私は考えたいのである。
これを「当然」としてしまえば、「努力すれば、すべてを自分の手にしてかまわない」更には「自分でつけた力なら、その力を使って何をいくらでも取れるだけ取っていってもかまわない」という感覚・考え方に、それはどこかで繋がっていく可能性が大いにある、と、私は思うからだ。
――いや、「こういう感覚・考え方」というのは、多くの人の場合、そこまで表面上・意識上に上がってくるものではないとは思う。
が、しかし。
「無意識の思考回路」のほうにこれがある人って、全体の割合として、意外と多いのかも?という気もまた、私はこのところしているのである。
とかなんとか。
他人様や社会についての話はひとまず置いておくとして(そちらも併行して同時に広げ出すと、記事内容が散漫になり収拾がつかなくなってしまうので、笑 まずは)私個人のことに一度話を戻そうと思う。
私のかつての成功体験――「猛烈に努力して、自分の力のみで、自分にとっては大きなものを勝ち取った」という(パッと見では、あるいはそこだけ切り取れば、良いとしか思えない)経験は、「私は努力したのだから、私が求めるものをもらえて当然」という認識にいつかなり、それは「強く求めるものならすべて」という「力信仰」みたいなものに、そのうち「化けて」いった気もする。
――実際私の中でそうして「得体のしれない何か」に「肥大化」していってしまった、とも言える。
「何と引き換えにしても欲しい」と考えるのは、その人の自由だ。
が、しかし、「全てと引き換えにするのだから、もらえて当然だろう」とまでなってしまうのは、やはりどこか違う気が、私は今になってしている。
何なら「すべてと引き換えにして一番欲しいものを手に入れ」なくてよかったと、今では思っているくらいだ。
――以前に記事にもした、「求めるものすべては、手に入らないようにできている」という「仕組み」の話にも、これは繋がっていく話である。
『頭脳明晰ではあるはずなのに、何て「人としての思慮」のほうは浅い人なんだろう。』
と、感じる人を、ちょいちょい(このところ頓に――前にも増してそういう人が「当たり前のように」「目立つところに」幅を利かせているのを)私は見かける。
(頭が良くてもそういう人を私は「賢人」だとは思えない。肝心な箇所が「とてつもなく浅い」からだ。あるいは、人としてのバランス感覚が悪すぎるからだ。)
大体そういう方々は、共通して、ある「似た空気」を纏っていることに、私はふと気づいたのである。
「似た空気」――それこそが、ここまでに述べてきた、この種の「傲慢さ」のように思えるのだ。
「私は力を付けたのだから、その力で、何を持っていってもいいはずだし、何を踏み台にしてもいいはずだよね?」というこの感じ――いや、(前述の繰り返しになるが、)これを「あからさま」にしている人は少ない。けれど、これが「根底にある」人って割と、フツーに、そこかしこにいる?――いや、もしかしたら多くの人の感覚の中にこれが既にある?そんな気も私はしているのだ。
無意識の、人としての「根底」のほうに、この考え方・感覚がある、ということ――そういう人のほうが「多数」となっていけば、それは「この社会における暗黙の了解」という形を取りかねない。
――うむ。
これはただ単に、個人的に「そんな社会はイヤだな、私は」というそれだけの話なのかもしれない。
社会の多数の人がそういう方向性で良しとするなら、もうそれはそれで、致し方ないことなのかもしれない。
でも――やはり「私個人としては」こう思うのだ。
「多くもらって当然」というが、その時設定している「多く」には(長いスパンで見たならとりわけ)際限がなかったりする場合も多い。
――多くもらったらいつしか、「更に」と、つまり延々と、「いや、も~っと多くじゃないと、多くではないだろう」となってしまうのが、人間のいやらしいところであり、でも、それは誰でも持ちうる「生物としての」習性だとも思う。
とはいえ。
「弱肉強食を当然の摂理とする生物である前に、人間でありたい」という気持ちもまた、人間だったら誰しもが持っていてもおかしくはないのではないだろうか。
(別の部分では「人間である前に生物じゃないか」という気持ちもまた、予めあってもおかしくはないのだけれどもさ。)
「際限ない卑しさ」つまり「もっとよこせ」という感情は、人間の場合にのみ、「育ちすぎる」というか、「生物が抱いてかまわない範囲以上のもの」にはみ出しかねないと、私はこの世界をみて感じる。(ええ、ええ、とりわけここ数年は、それを強く感じていますね。)
――そう、人間ほど、そういった「タガが外れる」つまりある種の「発狂」と親和性が高い生物はいないのだ。
「ある程度の自信」までは、むしろ持っていたほうがいいと思う。
でも、それが肥大し過ぎてどこか「傲慢さ」に変化した時には――そうなると自分自身も、延々とどこまでいっても満たされなくてその行きつく先は「不幸」(おまけに場合によっては他者まで巻き込む類の)になるように私は思うので。
それくらいなら、バッサリと、ンなもんは捨ててしまったほうが吉だとも、私は思っている。
あるいは、こうも考えられないだろうか。
「力を持っている人が全てを持っていってもいい」というシステムを自分の中に組み込む、ということは、それは「いつか自分自身が弱者側に回った時は、全てを強者に奪われても文句は言えない」という条件をも同時に飲むということに等しい。
――うん、まあ、こういう「緊張感」とか「厳しさ」を、自分の中に持つ、自分に突きつけ続ける、という生き方を、全否定するつもりはない。
何か大きなことを成し遂げようとする時は、こういう意識は、割と効果的に働くとも思うから。「大きな力をつける」「成長を遂げる」という面においても、良い影響を与えることも多いから。
でも、「弱肉強食」的思考回路を、「延々と」「全面的に」「全肯定・一分の疑いもなく」持ち続けるということは、私は「人間的」ではないと思うし、その「強さ」は、いつか自分の内面のほうの「柔らかい部位」をも傷つけていく気がする。
私達は、身体はもちろん、心も「生身」なのだ。
どんなに強固な殻で覆っても、心の中身まで鋼鉄にすることはできないと私は思う。(つい強固な殻で覆って「全然問題ない!私は鍛えているから!どこもかしこも大丈夫!どこまでも壊れません!」なんてそう考えがち、つまり「自信過剰」になりがちな我々ではあるけれどもさ!)
いや、シンプルに、例えば、とある独裁国のトップの振る舞いなんかを見ていて、私はこう思うのだ。
「何故、力で人を抑えつけようとするのだろう?――そんなのって、自分の力が弱まった時や気が緩んだ瞬間に、逆転して今度は自分自身がやはり力でやり返され倒される危険がいつも隣り合わせにあるという状況を、自ら作っているということになるのに。
そんなのって、どうなの?――一瞬の油断や隙も持てない日々を、この先ずーっと死ぬ瞬間まで送ることになるのは、この人個人にとって、そんなに幸せなことなの?
『だからこそ、より強い力を持ち、それで更に抑え込むのだ』って、本当に?
何だか『バカみたいな世界』にしか、そんなのって見えないんだけど??
そんなの、少なくとも私は御免だわ。」
そして、「強い力」同士が目くばせをしあって結託をし、更に弱い人から吸い上げていく、弱い人を黙らせていく、という、そういう「構造」もまた、私は大嫌いだ。
とか、このテーマで書くと、話がつきないなあ。
……って、あらら?
久しぶりに書いたら、ついつい、こんなに長くなってしまっていた!
(スミマセン!!!笑)
なのでそろそろ、今回の記事、ここまでつらつら書いたことを、一言二言三言くらいに(何とか)まとめてみようと思います!
と、こういうことに尽きるのかもしれません。