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時間を「大切に・ゆっくり」使う

「時間を大切に」というと、「一分一秒ムダにしない!」というほうにばっかり、意識が向きがちで。
――「時間の短縮」とか「時間の節約」とか、そういうことばかりを思い浮かべてしまうし、実際、自分も、そこにまるで取り憑かれたようになっている部分がこれまであった。

無論、その観点も大事だ。
が、しかし、「時間を大切にする」って、それだけだろうか?と、私はこの度また思い始めたわけである。


「時は金なり」なんて言うけれど、そもそも私にとって、「時は金以上」だ。

「時」は、貯めておくことはできない、というふうに私は考えるからだ。
(「何かを早く済ませることによって、後に時間の余裕を作る」ということまではできたとしても、それは同じ時間の枠の中で、やることをただ「前にずらしている」に過ぎない。――つまり、一日を25時間にしたり、一年を375日にしたりといったような、時間のその「量」自体を、増やすことでできない、といった意味で。)
(お金なら、例えば、より稼ぐ行為をすれば、その分、その総量自体を増やせるわけで。やはり時間とは、仕組みから違う。)
(閑話休題、)

お金ですら、「大切に使う」という言葉の中に、「節約」と同時に「何に対してどう使うか」という意味のほうも、含まれてくるものなのだから。

ならば、時間も、「どういうふうに使うか」も併行して、意識すべきであり。

――そこで、ふと感じたのが。

「時短」みたいな概念にとらわれ過ぎて、セカセカ、ケチケチ、常に時を過ごすクセが、どうもこれまでの私には染みついてしまっていたのだが。
それ自体が、時間の「豊かな」使い方とは言えないよなあ、なんて、ふと思ったのである。

言うなれば、何とはない時間ですらも、「過ぎてはいる」のならば、それは「過ごしている」ことに変わりはないのである。

――って、これ、どういうことかというと。

例えば、通勤などの移動にかかる時間然り。家事などの雑事にかかる時間然り。

そこも実は「時を過ごしている」ことに変わりはないはずなのだ。
が、実際、私はそこに「時を過ごしている」感覚は見いだせていない。――いかにその時間を短くするか、何なら省くか、その一点に異様に集中してしまっている。

まるでそれらが「邪魔な時間」であるかのように。

――でもなあ。

私は名前に「時」という字を入れたくらい、「時」を愛する人間なのである。
何より「時」を大切に思っているはずの自分にとって、「邪魔な時間」なんて、存在させていいものだろうか?と。――どんな内容の時間であろうとも、「時を邪険に扱う」なんて、したくないはずなのだが?と。


とはいえ、別に「ダラダラしていこう」と思っているわけではない。
(それはそれで、「本当はこういうことに一番に使いたい」と思うその時間が、一秒一秒、削られていくことになるわけであるから。)

ただ、常に「焦っている」――それも意識的に、自分で自分にそう「仕向けている」――この感じは、何だか、時の「過ごし方」として、もしかするともったいないことなのかも?なんて思い始めたわけである。

なので。

「一分一秒ムダにするものか!」から、そろそろ、「一分一秒単位くらいなら、それを使って気持ちにゆとりを作り出すことにも意識を向けよう」というふうに、時間に対する感覚を、変えてみようかと思っている。

間に合う時間キッチリに家を出るのではなく、数分くらいは、余裕をもってみるのもいいし。(そうすると、例えばいつもと同じ通勤経路でも、変化に目が留まったりもするし、あとは多少、移動しながら考えごとなんかもできる。)

「とにかく時短したい作業」も、ちょっと丁寧にやってみると、逆に作業そのものに意識が集中できてよかったりもするし。

――うむ。

ますますせわしない世の中ではあるが、キリキリマイマイせず(「きりきり舞い」。笑)、今年の私は、とにかく気持ちを走らせないでいこうと思うのである。



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