「自分の好きなもの」を自分の世界の中心に置けばいいのか
犬や猫ですら、人のことは(多分)人だと認識できるのに。
人こそが、人のことを人とも思えなかったりする。――そんな世界が、虚しすぎるのである。
(国内然り、国外然り、である。)
「チェスの駒じゃないんですよ? その人も、この世にたった一人しかいない、命を持っている人なんですけど?」
「食う飯にも困っている子供がいるというのに、どうして税金でそんなことができるんだろう……。」
「仕方ない」と思えないことが多すぎるのである。
――そんなふうに、人というものがつくづく嫌になって、もうどこかの山奥で、仙人みたいにひっそり誰ともかかわらずに独りで生きていきたい、なんて、私も夢を見ることがある。(笑)
が、しかし――よくよく落ち着いて考えてみれば。
「この世界」って、別に、人間だけで構成されているわけでもないし。
と、いうか。
「人間を中心に世界が出来上がっている」と感じているのは、あくまで人間、いや、更に言うなら「自分自身」の、その「認識」に過ぎないんだよなあ。
――「実際の世界」は、多分、そんなこともないはずだ。
空を中心に見れば、空が世界の中心だろうし。
水を中心に見れば、水が世界の中心だろうし。
植物の世界を中心に見れば、植物が世界の中心だろうし。
と、なれば。
人間なんて世界の「脇役」「おまけ」「お飾り」と、認識さえしてしまえば、たぶん、世界はそのままそうなるんじゃないかな、これ。
「自分が居る世界は、結局、自分の認識で形成されてしまう」というのは、私が常々宣う言わば「自論」ではありますが。(笑)
――これを、逆手に取ってしまえばいいのでは?
「自分の好きなものが、自分の世界の中心なのだ」と、こう認識してしまえばいいのでは?
「自分の好きなもの」――それは、(人間全てではなく)「特定の人」でもいいし、「音楽」でも「美術」でもいいし、「打ち込んでいる何か」でもいいし。
で、そんな「自分の世界の中心」に、「自分の愛するもの」を置いたなら、なるべく、「その世界」を裏切らないように生きていきたくもなる。
――うん、ほらほら!
こんな世界すら、割と明るい場所になるじゃない!
と、いう気が、私はしてきたのであるが。
(いかがだろうか??)