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「最後まで使い切る」なり「借り物だからちゃんと返す」なり

「かつては人がいたのに、人がいなくなった後、荒んでいく場所」って。
――立ち入っただけで、何だか重たくって、どこか少ーし、胸が痛む感じすらしてきてしまう。

そこに流れる「時間」までもが、(その外部とは同じ時間が流れているはずなのに、)「世界とは切り離された」「打ち捨てられた」感じまでもまたしてきてしまう。


そもそも。

元から人が、立ち入ったり手を入れたりすることが一度もなかった山林や荒野は、別に、どんなにそこに時が経過しようとも、「荒んでいく」という状態(印象)にならないわけで。

「人間が通り過ぎ、手を入れ、そしてその後そこからいなくなる」という、それだけで。

どうしてこう、その「廃墟の街」とか「廃屋」「敷地」とかって、どこか「荒れる」更には「汚れていく」印象になっていくのか?と思う。
(不思議だ。)



多分、人間は、いろいろなものに、自分の思いのままに「手を入れ過ぎる」、それができてしまうということなのかもしれない。

――人が関わり、触れ、あるいは作りだしたものだけが、実はその瞬間から、「古びる」「古び続けていく(造語みたいになったが)」という宿命を負わされるのである。


言い換えると。

「人が一度かかわった場所」(あえて悪い言い方を択べば「人間の手垢がついた場所」)のその「時間」というのは、「人間の時計」で、それが設定されてしまう、ということである。

本来の、言うなれば「地球時間の設定」――「千年単位の自然全体の循環」みたいなところから、その「人間世界だけ」が切り離された時計で回っているから、だから、「ただ元々に戻ろうとしている」その過程が、人間感覚でただ「古びる」に見えるんだろうなあ、なんてことを、個人的には感じたりする。


「自分たちが使わなくなったもの」は、最後に(最後まで)きちんと「始末する」ということが、大事な気がする。
(モノに限らず、何にでもこれは当てはまる話かもしれない。)


所詮、すべてのものは、「借り物である」という意識を持ちたいな、と。

モノはもちろん(すべての原材料からして)。
他にも、土地だって、――あるいは自分自身の身体ですら。

「借り物」である以上、「すべて」を、最後は「お返しする」のである。(もちろん、「人」に返すのではなく、あくまで「自然」とか「天」とかに返す、というような意味で。)


不景気のせいもあって、「使い切ることなく、人間がその手垢を付けたまま、使いっぱなしで放置」されているものが、そこかしこに残されている。
――そんな「うら寂しさ」が世の中を覆ったら、ますます、「うら寂しさ」が、「気持ちの上での不景気」のように増していく。

「うら寂しさ」が循環している、そんな世の中であるなあ、なんてことを感じつつ。

「始末する」
「最期まで使い切る」
またそうでなければ、
「すべて借り物だから使い終えたらちゃんと元に返す」
みたいなことを。

時というものを、つい、「人間時計で我が物顔に使ってしまう」私みたいな人間は、特に心にとめておきたいと思ったのである。
(つまり「時」さえも、「借り物」なのだと、私は思っている、ということである。)


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