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「眠りの世界」と「自分だけの聖域」

ふと思ったのである。現実というものは、ずーっと絶え間なく触れ続けていてはいけないものなのではないか?と。

で、もしかすると、例えばそのために「眠り」はあるのかもしれないし、眠り側の世界(夢の世界とか)もあるのかもしれない。

健康な状態の人は眠り続けることはできないし、したがって、夢を見続けることもできない。同様に、覚醒し続けて、現実に触れ続けることも、本来はできない。そんなことをしてしまったら、きっと人はどうにかなってしまうのではないか、と。(もし仮に脳自体が機能としては睡眠による休息を必要としない器官であっても、精神は現実に触れ続けてはいけないのではないか、ということ。)


その人の認識の中に「世界」は存在している。人の数だけ、それぞれの人の頭の中に、少しずつ違った(場合によっては大きく違うかもしれない)認識で、その人にとっての「世界」は存在している。

「世界」とは、いうなれば、「オーダーメイド」なのである。

例えば、「天国がどこかに存在している」と信じている人にとっての世界には、その考えの通り「天国がどこかに存在している」のであろうし、「いや、どこかではなくこの世こそが天国だ」と思っている人にとっては、この世自体がまさに天国なのであろう。地獄についてもまた同様だし、いや、その他諸々あらゆることについても、同じことがいえるのだろう。言い換えれば、「他人の認識」では、どうしたってなかなか、「自分がいる世界」は全ては構成されていないものなのだ。

つまり、現実とは、人の数だけの数多の「世界」が、自分の世界の外側に、他人の「自分とは違った認識」という姿で、うごめいている世界なのである。――という、その想像を、リアルにすることをお勧めはしない。私は想像しただけで、酔いそうだ。(どちらかというと、適量のお酒ではなく、飲み過ぎか、または乗り物酔いのほうの感覚。)

とはいえ、自分の認識の中から一切出ていかない、全く何も広がらず変化せず展開せずの「世界」は、多くの人にとっては退屈で、つまらないであろう。だから、現実の中で、他の人の抱えている世界と交わり、時には混ざり合うことも許容するのだと思う。が、しかし、自分の世界を、誰かに「浸食」されてはいけないのだともまた同時に思う。何故なら、自分が見ている世界は、自分が見ている世界でなければならないからである。視点が、他の誰かのものにそっくり変わってしまっては、いけないのである。つまり、「自分の世界」に一度戻る為にも、人は、現実から離れたもう片側の世界――例えばそれが自動的にやってくるものとしては、「眠りの世界」という「自分だけの場所」になるわけだが――周期でいえば一日に一度程度は、戻らないといけないものなのではないか。


(――という、そんな「仮説」を、私は立ててみたわけである。)


「自分だけの部屋」「鍵のかかるひきだし」「秘密基地」……それらのものを、子供の頃、自分で作ったり、または自分が与えられた時、うれしくなかった人は果たしているだろうか。みんな誰もが、それらを持つことを、うれしいと感じるものではないのだろうか。それらは子供時代であると、必ずしも、誰にでも与えられていたり、誰もが持っていたりするものではないかもしれないが。

でも、「自分自身の心の中」は、「自分だけの」ものであったのではないだろうか。――それはまるで、「自分だけの部屋」や「鍵のかかるひきだし」や「秘密基地」のようであったのではないだろうか。

老若問わず、人の心の中は、「一つの世界」であると同時に、その人にとっての「聖域」でもあると、私は思う。一人一人に、生まれ持って与えられている、そんな「聖域」である。

だから、何人たりとも、そこに無断で踏み入ったりしてはいけないし、ましてや、他人が、断りなく勝手に手を突っ込んで、その中の何かを変えてしまおう、なんてしていいわけがない。個人個人の心の中とは、つまり、何人たりとも侵せないものなのである。

そういう場所を、それぞれの人が、(つまりもちろん自分以外の人も、)もれなく、それぞれ当然持っている、ということ。

誰の心の中も、不可侵な「聖域」であっていいのである。まわりの現実がどうだろうと、他人や外側の物事がどう作用しようと、自分が持つその聖域を、自分で不本意に変える必要はない。

で、あるからして、それを反対の角度から言い換えれば、その自分の心の中の聖域にあわせて、現実の方が向こうから変わってくれるという事もまた、ほとんどない。

……なのだけれど。

偶に、私もそうだが、割と多くの人が勘違いしてしまうような気がする。自分に寄せて、現実、つまり他人の「世界」も変わってくれるのではないか、と。または、他人の世界に(それこそ自分が手を突っ込んで、)変えてしまっていいのではないか、と。

なまじっか、結果的に、不可侵であるはずの他人の世界を、支配できてしまったり、コントロールできてしまったり、ということが、起きてしまう前例が、これまでにあったりするものだから、人は「それをできる可能性がある」=「それをしていい」などと、勘違いしてしまうのだ。

「自分がされたくないことを、人にしてはいけない。」

「その人がしてほしくないことを、自分がしてはいけない。」

こんな当たり前の事を、何故だか無視して、人だけが現実の中で粗暴に「他人の世界」を荒らしてしまうことは、割と多くみられる光景だと思う。

そういう人に巻き込まれたくないし、また私もそういうふうにはなりたくない。

たとえ物理的に、現実世界で、荒らされたとしても。

私の聖域は、私で守るのだ。

だから私は今夜も。

眠りの世界へと、戻っていくのかもしれない。