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記録すること-「無くなるわけではないのに消えてしまうもの」ばかりだから-

私が日々、こうして自分の考えを文章化しているのも、「忘れてしまうから」というのが、一番の理由なのだと思う。


「忘れる」は、「知らない」に戻ることでは、けっしてない。

――ないのだが、しかし、自分自身の「意識上」や「視界」から、その「姿」は消えてしまうことを表していると思う。(「自分の中にあるもの」なのにもかかわらず。)

そして私は「ドケチ」なもので(笑)、そうして「消えてしまう」ことすら、もったいないと感じているのだと思う。



その時一度抱いた「感情」というものは、実は無くなりはしない。
――が、概して、時を経るにつれ、いずれは薄まり、目に見えるあるいは自覚というカタチで感じられるその「姿」は、消えていくものである。

それとまるで同じように。
あるいは、全てが連れ立ってでもいるかのように。

目にした光も影も、意識に捉えた風景も、その時聞こえた音触も、指に触れた感触も、空気の匂いも、――すべての一瞬も、時間の流れ方も。

皆、皆。

「姿」を消していってしまうものばかりだ。

考えてみると。

この世とは、(多少の時間の長短はあれど、)(そして、のちに蘇ることもあるけれど、)「姿が消えていくもの」「姿を消していくもの」ばかりで構成されているものなのだなあ、と、改めてしみじみしてしまう。


「現実」なんて、みんな「余韻」で出来ているのではないか、と思うくらい。
(少なくとも、その記憶は「余韻」と同じだ。)

そして「ずっとそこにある」なんて思いこんでいる、そんな「錯覚」で、この世界の全てが設えられているのではないかと思うくらい。

いつの日か、「私」がいなくなっても。

例えば、今日のこの「言葉」は、私自身を離れて「ここ」に残るのかと思うと。

ずいぶんとまあ、「不思議な世界」に、既に自分は暮らしているのだなあ、なんてことを思う。
――面白いじゃないか、世界。
捨てたものでもないな、なんてことも思う。


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