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なぜ「生放送」だったのか

「ザ・ベストテン」も、「夜のヒットスタジオ」も、あれだけ長い放送期間の数多の放送回数の中で、生放送ではない回って、一度もなかったんではないかな?
「本日だけは都合により、事前収録でお届けしております」みたいな回は。


「生放送で届ける」ことの、その意味とは?
――いや、でも、想像してみて欲しい。

今現在だって。

「紅白歌合戦」が、全編事前収録の録画だったら?
毎日のラジオやテレビのプログラムに、一日のうちで生放送の番組が、一つもなくなったら?
――な~んか、調子が狂うというか。

「リアルタイムで」「今流れているこの同じ時を過ごす」ということって、「何故それがいいの?」と問われると明確な説明はできないんだけど、しかし、「大きな意味がある」ことのような気はする。



例えば、何故、「ライブ」「コンサート」や、「演劇」を、「わざわざ現地まで赴き生で観る」のかという問いにも、これは通じる話になるのかもしれない。

「別に、家に居ながら、収録されたものを見たって、それは同じことじゃない?」と、実際に感じる人もいるだろう。

でも、私はそうは感じなくて、「観に行きたい」派なんだよなあ。

「同じ瞬間を共有する」と、「濃さが違う」んだよなあ。

(個人の感覚的な表現に終始して申し訳ないけど。)
(そして、「別に自分はそうは思わない」って人がいてもおかしくないとも思うけど。)


流れている川の水に直に触れるのと、その水を容器に汲んで完全密閉はするけどしばらく置いた状態から流して触れるのとでは、絶対、「触れられるもの」が違う。
(と、「私は」感じるわけなのである。)

あるいは。
例えば今日のこの、窓から射す光そのもの、「それを感じること」そのものは、「保存しておいて後に再現」などはできない。
それと同じことでもあるのかもしれない。
(と、「私は」感じるわけなのである。)


そして、歌謡音楽番組に話を戻せば、それを見ていた当時より、今のほうが、その価値がわかる。
――当時は自分も子供だったし、それを「当たり前のもの」と捉えていたところもあったし。


うーん。
「勢い」ほど、感覚的なものってないかもしれないなあ。

でも、それを吸収したくて、幼少当時は、テレビに噛り付いて、その「生放送の生を」見ていたんだろうなあ。
(そういや、わが実家に録画できるビデオデッキが来たのはずいぶん遅くて、90年代に入った頃だったかもしれない。――うちの親は、そういう機器を欲しがるタイプではなかったので。)

そして、その「勢い」みたいなものには、今だって憧れるし、求めてもいるし。



一昨日の記事の流れで言うなら、「同時代性」もまた、ある種の「勢い」である。

無論、「時代を越えて残る」ものの力は絶大だ。
が、しかし、その反面、「時代を越えることはかなわぬ」(その当時を思い出したり想像したりして味わうことはあり得ても)「その時の勢い」みたいなもの――ひいては「今という時間が流れている」その「感触」の「共有」みたいなこと――って、もっと「評価されるべきもの」として、扱われてもいいような気がする。

「残るもの」「残すもの」も大切だけど。
「残らないもの」も、それは「その時にしか存在し得ない」から、それはそれで大切ということだ。


――とはいえ、まあ、「同時代性の勢い」みたいな「漠然としたもの」は、「言葉では説明も出来ず」その上「忘れられてしまう」「どうしても薄れていってしまう」からこそ、貴重なのかもな?ともまた思う。



文章にも、そういうのってあるだろうか。

毎日書くこと、そして、その書く内容は(なるべくだけど、)「その日の思いつきで」書くようにしていること。
――ここらへんの私のnoteの決まり事って、突き詰めると。
「瞬間の共有」つまり「生放送感覚」みたいなものを、文章の中に掬いとれないか、書きとれないか、という、自分なりの試みなのかもしれない。
(まあ、言うまでもなく、それは「自己満足」ではあるのだけど。笑)

一つの文章の中に、「残るもの」と「残らないもの」を、同時に含ませることができたら、面白いだろうなあ。
――なんてなことを、今日も書きながら、思ったり、思わなかったり……いや、やっぱり思ったり。(どっちなんだ!笑)


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